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とき:2025年8月2日(土) 午前11時

ところ:英連邦戦死者墓地(横浜市保土ヶ谷区狩場町)

 今年は第2次世界大戦が終わり、80年目の節目の年です。この「戦後80年」の間、幸い日本は戦争に巻き込まれることなく、平和を維持してくることができました。しかし、紛争は世界各地で続いています。ロシアとウクライナの停戦は未だ見通せません。パレスチナの紛争も続いており、多くの市民が犠牲となっています。一方、私たちの身の回りにも平和とは呼べないようなことが日々起こっています。痛ましい事件や事故によって尊い命が奪われています。貧困や差別もなくなりません。インターネットの世界では誹謗中傷の嵐が吹き荒れています。沖縄の基地問題も未解決のままです。本当の平和は一体いつ実現するのだろうか、と思います。

 そのような中、私たちは、自分の身の回りから「平和をつくる者」となって参りたいと思います。この追悼礼拝に参加する者たちが、それぞれの場所に遣わされ、その場所において「平和をつくる者」となっていくことです。「平和をつくる」ことは決して楽なことではありません。むしろ、多くの困難があると思います。しかし、これまで私たちが歩んできた「平和と和解の道のり」をこれからも共に歩むことにより、力を合わせてそれらの困難を乗り越え、平和をつくって参りたいと思います。

 今年も追悼礼拝を行います。亡くなった方々の墓地のただ中で、十字架を前にして立ち、声なき声を聞く時です。改めて、戦争の愚かさと恐ろしさ、そして平和の尊さを噛みしめたいと思います。

 参加ご予定の方は、7月1日以降、メールあるいはオンラインでのお申し込みをお願いいたします。事前になるべく参加人数を把握したいと思っておりますので、ご協力をお願いいたします。

 例年のように、暑さ対策には万全を期してお越しくださいますようお願い申し上げます。

2025年6月10日

<主 催> 「英連邦戦没捕虜追悼礼拝」実行委員会 

代表 奥津 隆雄


<詳細>

とき:2025年8月2日(土)午前11時(午前10時30分集合)小雨決行。

ところ:英連邦戦死者墓地(横浜市保土ヶ谷区狩場町238)

交 通:☆JR横須賀線保土ヶ谷駅東口下車。バス乗り場は3番乗り場となります。

横浜市営バス、53系統「平和台折り返し場」行きにて約15分。

「永田台公園前」下車、進行方向右、徒歩3分。

バス時刻表(8:45/9:10/9:49/10:20) 料金:片道現金220円

    ☆その他のアクセス

①横浜駅より始発 神奈川中央交通[横17]保土ヶ谷駅東口経由東戸塚駅東口行き

「児童遊園地入口」下車

②横浜駅より始発 横浜市営バス[53]児童遊園地・平和台行き

「永田台公園前」下車

③戸塚駅より始発 神奈川中央交通[戸38]保土ヶ谷駅東口行き

「児童遊園地入口」下車 

ご注意:

◆ 台風などの災害級の警報などが発令され、開催を中止する場合には、前日午後5時をめやすにホームページとFacebookで案内を致します。

◆ 近年厳しい暑さが続いております。日傘、帽子などをご持参下さい。

◆ 服装は軽装でも結構です。天候により各自ご判断下さい。


キリスト教式礼拝について

この追悼礼拝はキリスト教式で行われますが、それは、戦没捕虜の方々の多くがキリスト教徒であるため、彼らの信仰を尊重してのことです。インド・パキスタン地区はヒンズー教徒、イスラム教徒の方々がほとんどなので、墓地に十字架もありませんし、献花の際、賛美歌は歌わず他の曲を選んでいます。従いまして、私たちは皆様にキリスト教を押し付ける意図など毛頭ありませんし、この追悼礼拝に参加される方がキリスト教徒でなくても一向に差し支えありません。同じ追悼の心を持ってご参列下さい。

<参考>

「私たちは、マザー・テレサやシスターたちが、死を待つ人のホームに運ばれる人々に向かって、がまん強く名まえと宗教をたずねるのを再三見かけた。それは、あくまでも相手の宗教に対する尊敬と、万一死んだ場合にその宗教に応じた葬り方をするためである。貧しい人々は、自分の宗教を大切に扱ってくれる相手に対して、全幅の信頼を見せて、自らをゆだねる。」

千葉茂樹著「マザー・テレサとその世界」95頁(女子パウロ会、1980)

『私の戦後80年―「英連邦戦没捕虜追悼礼拝」30年の歩み―』(仮題)発行予定

本冊子は、今年の追悼礼拝の時販売する予定です。第21回から第30回までの追悼礼拝で語られた「追悼の辞」「大使館代表挨拶」「代表挨拶」をまとめて収録してあります。また、毎年プログラムの中に入れてあります「捕虜たちの声なき声に耳を傾けて」もまとめました。墓地訪問の際お役立てください。そして、特集として「私の戦後80年」の記事を載せました。執筆者の方々の「戦後80年」をお伝えしたいと思っております。ぜひお買い求めください。

献金のお願い

毎年皆様から多くの献金をいただいております。心から感謝いたします。これからも追悼礼拝を続けていくために、今年も皆様からの献金をお願いしたいと思っております。特に近年、献花用のリース代が高騰しています。ご協力をお願いいたします。

英連邦墓地駐車場に関してのご案内

近年自家用車で追悼礼拝に参加される方が増えていますが、英連邦墓地の駐車スペースが限られています。満車の際はお近くの横浜市児童遊園地有料駐車場をご利用ください。英連邦墓地の駐車場は追悼礼拝実施関係車両やお体の不自由な方々の車両を優先させていただきたいと思います。ご理解、ご協力をお願いいたします。

※横浜市児童遊園地有料駐車場は英連邦墓地から徒歩5分ほどです。30分ごとに100円かかります。50台の駐車スペースがあります。

追悼礼拝の参加申し込みはメール、インターネットでお願いいたします。

※お困りの場合は奥津までお電話でお問い合わせいただいても結構です。

申し込み開始は2025年7月1日です。

メール

takaookutsu414@icloud.com

追悼礼拝のご案内・緊急連絡は実行委員会ホームページ、またはFacebookをご覧ください。

https://pow-memorial-service.amebaownd.com/

https://www.facebook.com/hodogaya.reihai/

第1回タイ研修旅行のご報告

2019年2月18日から22日の5日間、英連邦戦没捕虜追悼礼拝実行委員会の有志と仲間たちで研修旅行」としてタイを訪問しました。追悼礼拝の呼びかけ人であられた元陸軍通訳・永瀬隆氏は生前タイを幾度も訪れ、平和と和解の働きを続けました。永瀬隆の思いを継ぐ実行委員の我々も一度タイを実際に訪れ、旧日本軍が連合軍捕虜と現地労務者に対して行った史実を学ぶため、また追悼礼拝が25回目という節目を迎えるにあたって今回の研修旅行を企画・実施いたしました。今回の研修旅行ではクワイ河鉄橋、連合軍共同墓地、泰緬鉄道博物館、JEATH戦争博物館、チョンカイ共同墓地、日本軍慰霊塔、アルヒル桟道橋、ヘルファイアー・パスなどを見学したほか、永瀬隆氏にゆかりのある方々を訪問しました。実際にタイを訪れ、自分たちの目と足で戦争の歴史を追体験することによって、追悼礼拝を通した平和と和解の実現について改めて考える貴重な機会を持つことが出来ました。

旅程

2月18日(月)

14時25分(成田発)タイ・エアアジアX(0603便)直行便。

同日、19時35分(バンコク着)所要時間7時間10分。バンコク泊。

2月19日(火)

朝7:00 バンコク出発

10:00 カンチャナブリ駅到着 >>> 到着後、スワンナさん訪問

10:50 クワイ河鉄橋駅から列車に乗る

12:00タマ・カセ 着 駅周辺で昼食

13:30 タマ・カセ発

14:30 ヘルファイヤーパス ・メモリアル、ヘルファイヤーパス見学

16:30 ヘルファイヤーパス 発

18:30 ホテル着

2月20日(水)

9:00 連合軍共同墓地&泰緬鉄道博物館(ロッド・ビーティーさん案内。「ふぇみん」のグループに合流)

12:30 昼食 at クワイ河鉄橋脇のRIVER KWAE RESTAURANT

14:00 チュンカイ共同墓地にて献花 >>>日本軍慰霊塔にて献花

15:00 JEATH戦争博物館見学 >>> 永瀬さんの銅像見学。この日はちょうど永瀬さんの101回目の誕生日だったので、銅像前にて全員で「ハッピーバースデー」、「主はわが飼い主」、「ふるさと」を歌う。また誕生日の寄せ書きを銅像に残す。

17:00連合軍共同墓地管理人Mick Newbattさんを表敬訪問。

17:30 クワイ河平和寺院 見学

18:00 ホテル着

2月21日(木)

8:00 ホテルチェックアウト バンコクに移動。

10:00 ナコンパトム仏塔見学

12:00バンコク着。各自昼食 >>> バンコク観光。 王宮周辺観光及び バンコク日本語キリスト教会訪問

2月22日(金)

8:00 ホテルチェックアウト 10時45分(バンコク発)タイ・エアアジアX(0606便)直行便。

同日、19時(成田着)所要時間6時間15分



第二次世界大戦中、日本は、アジア・太平洋地域への侵略により、多くの国々と国民の 生命を「恐怖と欠乏」の中に陥れました。各地でその住民を強制労働に徴用し、連合国 からの駐在者をも収容所に拘束留置し、国際法に悖(もと)る扱いをしました。オース トラリアのカウラ収容所での日本軍将兵捕虜何百人もが自殺行為の集団脱走をした事件 の背後には、沖縄戦の場合のように、自決を強制し、投降を許さず、捕虜になることを 禁ずる軍司令部の教育がありました。

その教育のため日本軍は、敵軍の捕虜を人間とは みなさなかったのです。 強制労働ののち日本に移送された捕虜たちを待っていた処遇は、軍需工場や炭鉱などで の重労働、栄養失調、重傷も重病も、ただ放置されることなど、苛酷なものでありまし た。多くの捕虜が故郷に帰ることができず、この異国で生命を奪われました。 連合軍捕虜のうち、一千八百余名は、横浜市保土ヶ谷の英連邦戦死者墓地に眠っています。それらの犠牲者の家族、その身近な方々の日本軍に対する怨念の深さは量り知れません。

そこで戦後五十年を機に、1995 年、この墓地で初めての「戦没捕虜追悼礼拝」を私たちは執り行いました。
礼拝の原点は、憎しみの消えない犠牲者と日本人との和解 のきっかけが与えられることです。
それにより、世界の恒久平和の実現が可能になるの です。

「英連邦戦没捕虜追悼礼拝の趣旨」より抜粋

5つの柱

追悼礼拝に参加された方々の声

今回礼拝に参加して感じたことは、私たち若い世代がこのような礼拝に脚をはこんで実際に墓碑を見る、そういった小さな経験から教育は始まるのではないかということです。自分たちと同じように、学問やスポーツ、そして恋に若いエネルギーの全てをぶつけたかった若者がほんの半世紀前には死を選ばなければならなかった。その事実を墓碑から知ることによって、自分の生き方を見直すことができるのではないでしょうか。 

K.M(学生)

英連邦墓地にて、眠っている方のほとんどが、20才代であることを実感しました。墓に刻まれた名前や年令、所属部隊の名前を目にすると、一人一人の顔がなんとなく浮かび、奪われた命の重みを感じました。同時に20才代で死を迎えなければならないつらさやくやしさ、怒りを自分のことのように感じたのです。日本軍がきちんとジュネーブ条約を守ってさえいれば、捕虜に対する正しい認識と理解があったならば、起こりえなかった悲劇も多くあったと思います。整然と並べられたお墓は、それを物語っていました。 

C.E(学生)


歴史/資料

1995年8月5日、戦後50年を機に、故永瀬隆氏(元陸軍通訳・青山学院OB)、故斎藤和明氏(国際基督教大学名誉教授)、雨宮剛氏(青山学院大学名誉教授)の3氏の提唱により、当墓地における日本人による初の追悼礼拝が行われました。以来毎年8月の第1土曜日、午前11時から追悼礼拝を行なっております。


墓地に眠る人々

墓標には”A. BAILEY/ THE DEARLY LOVED HUSBAND OF MARGARET AND DADDY OF MERVICE. REST IN PEACE.”「心より愛すべきマーガレットの夫であり、メルビスのお父さん。安らかに。」と書かれています。26歳で亡くなっています。この方の甥であるテリー・アトキンソンさんは第16回の追悼礼拝に参加してくださいました。

捕虜たちの声なき声に耳を傾けて(5) 2018

英連邦墓地はいつも深い緑と静寂に包まれていますが、整然と並ぶ1800余りの墓碑の1つ1つに様々な生と死のドラマが秘められています。私たちは、遠い異国で無念の死を遂げた捕虜たちの声なき声を聴き取ろうと長年調査をしてきました。今回はその中から3つの話をご紹介します。

(2018.8.4 POW研究会 田村佳子&笹本妙子)

■カナダ区 AプロットB列12 Murray Goodenough 1943年12月22日死亡(18歳)

横浜の英連邦軍戦死者墓地に眠る兵士の大半は20代であることにお気づきでしょう。彼らの両親、婚約者、新婚の妻や幼い子供達はその悲しい知らせをどのように受け止めたのでしょうか。この墓地に眠る一番若い兵士は一体誰でしょうか。カナダ区に行くと彼のお墓を見つけることが出来ます。齢18歳でした。

1941年11月16日、香港を防衛する英国軍支援の為、1975名のカナダ兵が到着しました。彼らはジャマイカで基礎訓練、後は香港へ向かう船上で受けたのみの急ごしらえで未熟な部隊、戦場経験は皆無、装備も不完全なものでした。マレーもその一員で当時16歳、激しい襲撃に直に立ち向かうこととなりました。12月7日、日本が真珠湾を攻撃、カナダ兵たちは程なく進撃して来た日本軍に対峙。彼らは充分訓練され、既に戦場経験が有り、しかも完全装備のつわもの達でした。聖なるクリスマスイブは阿鼻叫喚の戦闘となり、翌クリスマスの日に降伏、264名の兵士が戦死、生存者は全員日本軍の捕虜となりました。

1943年1月19日、英国兵を含む約660名のカナダ兵が香港を出発、龍田丸にて3日後、日本に到着、マレー達500名のカナダ兵が東京第3捕虜収容所に送られました。横浜鶴見造船所での使役で、マレーにとって終焉の地となりました。カタル性肺炎でした。

生還し、この墓地を訪ねた元捕虜達はよくマレーの勇敢さを口にしました。香港陥落時の戦闘での彼の精悍さが称えられ、専攻十字章(兵士としての最高の名誉の勲章)を授与されました。マレーが入隊したのは1939年10月、僅か14歳という事実に胸が詰まります。

マレーの死の悲しみはあまりにも大きく、家族は以後口をつぐみ、後の世代には彼の話がほとんど伝わっていません。香港のスタンリーにある聖ステファン・カレッジの資料館に彼の遺品が箱に納められ、展示されています。

■納骨堂: パネル3 Edgar Harold 1943年2月12日死亡(45歳)

エドガー・ハロルドは息子であり、夫、父、また2人の祖父でもありました。1897年イギリスに生まれ、1943年日本で亡くなりました。1939年、42歳にして英国砲兵隊員に配属されました。既に二人の娘を病気で失い、更に当時21 歳の娘が出産で瀕死状態にあり、彼自身の7番目の息子が生まれたばかりの時のことでした。基礎訓練を受けた後、彼の連隊は装備し、東部からスコットランドに移動し、船団を仕立てた軍艦に乗り込み、イラクのバスラに向け出発しました。南アのダーバンに到着する頃、日本が真珠湾を攻撃したとのニュースが入りました。1941 年12 月21 日、部隊は編成しなおされ、エドガーはシンガポール防衛に向かう4隻の軍艦と2隻の護衛艦から成る船団に加わりました。武器や必要な物資はバスラに行ってしまいました。エドガーの部隊はシンガポールからジャワの精油所の防衛に向かうことになりました。劣勢化する戦闘に降参が示唆され、英国兵たちは満員列車に乗ってジャカルタに行き、そこから 戦地に赴くエドガータンジョンプリオクまで行進、1942 年3 月8 日日本軍に降伏しました。捕虜となって7 カ月後の10 月、千人超(記録では2700 名)の捕虜達がぎらつく太陽の下、5 キロ程をよろめきながら歩き、吉田丸に詰め込まれました。船内の環境は、食事を含め、極めて悪く、3 日後の10月26 日シンガポールに到着しました。次に「しんがぽーる丸」に乗り込む前に、赤痢・コレラの検査が有りましたが、その結果を待たずして10 月30 日、日本に向けて出航しました。ゴキブリやネズミのいる不潔な船で、捕虜達の入れられた船倉は身動き出来ないほど混み合い、食事は乏しく、病人には薬もありませんでした。1081 名の捕虜が輸送されましたが、台湾を経由し11 月25 日、ようやく日本に到着した折、船外に出られたのは677 名のみでした。航行中に、また到着時の死亡者が多数ある中、エドガーは門司の検疫所に連れて行かれた35 名のうちの一人でした。彼はそこで1943 年2 月12 日に亡くなり、火葬され、遺骨は門司の大雄寺の共同墓地に埋葬され、戦後横浜の英連邦軍戦死者墓地に移送され、納骨堂に英・蘭・米の334 名の捕虜達と共に眠っています。今日に至るまでエドガーの家族は誰ひとり横浜に墓参する機会に恵まれないでいます。エドガーの一番下の息子は今年79 歳になります。父親の記憶は皆無ですが、皆様が父親について小文を読んで下さることを大変に喜んでおります。 ―――エドガーの孫、マリリンより (訳、田村)

訳者注:昨年末、初めて連絡を頂いたこのエドガーの家族によると、年配者が兵士になることは稀なケースでは無く、ご夫人は7 人の子供を抱えて留守を守り、行方不明の報にも夫の無事帰還を願い続け、死亡通知を受けたのは、戦後でした。が、その後も大変気丈に暮らされたそうです。

■ 戦後区A プロットA 列12 Anthony John Hatfield 1948 年1 月28 日死亡 (生後1 日)

インド・パキスタン区の上にある戦後区に足を踏み入れたことはありますか? ここには第2 次大戦後に亡くなった人々や朝鮮戦争の戦死者が埋葬されていますが、生後1 日とか1 週間といった幼子までいます。この子たちはなぜここに眠ることになったのでしょう? その謎の1 つが解けたのは2012 年10月、日本外務省の招聘で来日したオーストラリアの元捕虜・抑留者の方々がこの墓地を訪れた時のことでした。その1 人、元抑留者のエルサ・ハットフィールドさんの息子さんが眠っていたのです。エルサさんは1923 年に上海で生まれ育ちましたが、18 歳になった1941 年12 月、家族と離れてオーストラリアに帰国途中、太平洋戦争が勃発し、フィリピンに抑留されました。抑留生活は苦難の連続で、栄養不足のため多くの人が脚気、疥癬、潰瘍などに苦しみ、死亡者が続出しました。食べ物を求めて抑留所から脱走した男性は即座に銃殺され、エルサさんは日本人に対して激しい敵意を抱きました。しかし1945 年2 月、米軍の奪還作戦によって抑留所が解放され、エルサさんは無事オーストラリアに帰ることができました。戦後、エルサさんはオーストラリア陸軍に入隊し、英連邦占領軍の一員として日本に派遣されました。駐留中に出会ったオーストラリア軍人と結婚して広島県の呉に住み、親切な日本人とも知り合い、幸せな生活でしたが、一方で広島原爆の惨禍を目の当たりにし、日本の人々も苦しんでいることを知りました。やがて身籠り、母になることを楽しみにしていましたが、生まれた息子アンソニー君は10 時間しか生きることができませんでした。彼は四国の墓地に埋葬されましたが、その後横浜の墓地に移されていたことが今回の招聘によってわかりました。彼女は息子の墓碑に、夫・娘・孫娘と撮った写真を手向け「今は日本人に対して敵意は抱いていません。皆さんは素晴らしい国を築きました。日本がずっと平和で幸せでありますように」と語りました。

※捕虜に関する情報は、POW 研究会HP をご覧下さい。http://www.powresearch.jp/jp/index.html



英連邦戦死者墓地へのアクセス

住所

神奈川県横浜市保土ケ谷区狩場町238

アクセス

JR横須賀線保土ケ谷駅東口から市営バス53系統永田台経由「平和台折り返し場」行きで(約12分)「永田台公園」下車、進行方向右に徒歩3分


英連邦戦没捕虜追悼礼拝

英連邦戦没捕虜追悼礼拝実行委員会

代表 奥津 隆雄