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第31回英連邦戦没捕虜追悼礼拝 

実行委員会青年代表挨拶

「戦争を生み出すものとは」

渡 健太郎

本日は第31回英連邦戦没捕虜追悼礼拝にご参加いただき誠にありがとうございます。本日主催者側を代表して挨拶致します渡健太郎と申します。敗戦80年の節目にあって、追悼礼拝を始めた人たちはもうこの世にはいません。しかし幸いなことに、私たちは追悼礼拝を続けることができています。追悼礼拝は戦時中の日本の加害行為を認め、真摯に反省し謝罪し、赦しを請い、1800余人の戦没捕虜たちの前に平和を誓う時間です。この追悼礼拝が今も続けられているのは、私たちの謝罪に向き合ってくださる英連邦各国、オランダ王国の大使館関係者の方々の理解と、私達を支えて下さるご参加の皆さまのご理解によるものと受けとめています。改めて、みなさまにお礼申し上げます。

 私たちは今日ここで、戦争が無くならないこの世界において、何が戦争を生み出しているのか、を考えなくてはなりません。そこで、「憎悪のピラミッド」という概念を共有したいと思います。これは、ジェノサイドへと至る過程をピラミッドで表したもので、最初は「先入観による行為」から始まります。次に「偏見による行為」へと移り、「差別行為」「暴力行為」へ発展し、最後はピラミッドの頂点である「ジェノサイド(意図的・制度的な民族の抹殺)」に至るというものです。「先入観による行為」とは「冗談・うわさ・敵意の表明・排除する言語など」です。注目したい点は、ジェノサイドは強力な支配構造やイデオロギーから始まるのではなく、他者に対して敵意を持ち、それを表明することから始まるというところです。

この「他者に対する敵意」というものを、私は追悼礼拝をとおして学びました。戦場において、捕虜は弱者の象徴です。守るべき命です。しかし、日本兵の多くは「敬意」ではなく「敵意」をもって捕虜たちに接しました。結果、おびただしい数の人が死んでいったのです。その捕虜たちのほんの一部が、今私たちの前に眠っています。他者に対する敵意は戦場における特殊なものではありません。普通に暮らす私自身にも他者に対する敵意があることに気付きます。たとえば他者よりも優位に立ちたい、自分の正しさを相手に認めてほしい、そういう気持ちが私にはあります。つまり私が自分を正当化するあまり他者を否定することと、日本兵が捕虜を虐待したことは、ジェノサイドへと至る「同じ敵意」なのです。ですから私は、自分の中から敵意を手放すことを学びたいのです。それこそがジェノサイド/戦争へと至る道を断ち、平和を守る第一歩だからです。

そのための手助けになるのが、この追悼礼拝です。追悼礼拝は謝罪と和解の時間です。分断は争いの種であるのに対し、和解は関係性の修復であり、共に生きることの再スタートです。私は和解のある世界を望みます。この和解は与えられるものであり、私達日本人にできることは、過去を学びひたすらに謝罪し続けることです。謝罪において、過去と現在は出会います。つまり、過去の中の敵意が戦争を生んだこと、それと同じ敵意が現在の自分のなかにもあることに気づくのです。この気づきにおいて、自分の敵意を戦争へと発展させないように自分を戒め変えることが始まるのです。現実を良くする力は、謝罪から始まります。これこそが、戦後生まれの私が、過去における日本の罪を謝罪し続ける理由です。私がこの場で謝罪することは、過去の日本の罪だけではありません。同時に今自分が犯している罪についても謝罪しているのです。追悼礼拝が、この気づきを私に与えてくれました。

最後に、この場所を守り続ける墓地委員会に感謝します。この土地を与えてくれた日本政府にも感謝します。しかし、私たちの国は殺傷能力のある武器輸出の検討や自衛権の拡大など、争いの種を再びまこうとしています。同時に、日本の平和が、沖縄や福島、社会的に弱くされている人、在日外国人の犠牲によって成り立っていることを私たちは忘れません。平和のための犠牲の最たるものが、戦没捕虜です。今私たちは1800人余りの戦没捕虜たちの前に立っています。彼ら及び彼らの家族に誓って、私たちは戦争へと至るすべての要因を排除していきます。その要因のうち一番小さいものが、自分の中の敵意です。

自分の中の敵意を手放すために、来年もこの場で会いましょう。ありがとうございました。

第1回タイ研修旅行のご報告

2019年2月18日から22日の5日間、英連邦戦没捕虜追悼礼拝実行委員会の有志と仲間たちで研修旅行」としてタイを訪問しました。追悼礼拝の呼びかけ人であられた元陸軍通訳・永瀬隆氏は生前タイを幾度も訪れ、平和と和解の働きを続けました。永瀬隆の思いを継ぐ実行委員の我々も一度タイを実際に訪れ、旧日本軍が連合軍捕虜と現地労務者に対して行った史実を学ぶため、また追悼礼拝が25回目という節目を迎えるにあたって今回の研修旅行を企画・実施いたしました。今回の研修旅行ではクワイ河鉄橋、連合軍共同墓地、泰緬鉄道博物館、JEATH戦争博物館、チョンカイ共同墓地、日本軍慰霊塔、アルヒル桟道橋、ヘルファイアー・パスなどを見学したほか、永瀬隆氏にゆかりのある方々を訪問しました。実際にタイを訪れ、自分たちの目と足で戦争の歴史を追体験することによって、追悼礼拝を通した平和と和解の実現について改めて考える貴重な機会を持つことが出来ました。

旅程

2月18日(月)

14時25分(成田発)タイ・エアアジアX(0603便)直行便。

同日、19時35分(バンコク着)所要時間7時間10分。バンコク泊。

2月19日(火)

朝7:00 バンコク出発

10:00 カンチャナブリ駅到着 >>> 到着後、スワンナさん訪問

10:50 クワイ河鉄橋駅から列車に乗る

12:00タマ・カセ 着 駅周辺で昼食

13:30 タマ・カセ発

14:30 ヘルファイヤーパス ・メモリアル、ヘルファイヤーパス見学

16:30 ヘルファイヤーパス 発

18:30 ホテル着

2月20日(水)

9:00 連合軍共同墓地&泰緬鉄道博物館(ロッド・ビーティーさん案内。「ふぇみん」のグループに合流)

12:30 昼食 at クワイ河鉄橋脇のRIVER KWAE RESTAURANT

14:00 チュンカイ共同墓地にて献花 >>>日本軍慰霊塔にて献花

15:00 JEATH戦争博物館見学 >>> 永瀬さんの銅像見学。この日はちょうど永瀬さんの101回目の誕生日だったので、銅像前にて全員で「ハッピーバースデー」、「主はわが飼い主」、「ふるさと」を歌う。また誕生日の寄せ書きを銅像に残す。

17:00連合軍共同墓地管理人Mick Newbattさんを表敬訪問。

17:30 クワイ河平和寺院 見学

18:00 ホテル着

2月21日(木)

8:00 ホテルチェックアウト バンコクに移動。

10:00 ナコンパトム仏塔見学

12:00バンコク着。各自昼食 >>> バンコク観光。 王宮周辺観光及び バンコク日本語キリスト教会訪問

2月22日(金)

8:00 ホテルチェックアウト 10時45分(バンコク発)タイ・エアアジアX(0606便)直行便。

同日、19時(成田着)所要時間6時間15分



第二次世界大戦中、日本は、アジア・太平洋地域への侵略により、多くの国々と国民の 生命を「恐怖と欠乏」の中に陥れました。各地でその住民を強制労働に徴用し、連合国 からの駐在者をも収容所に拘束留置し、国際法に悖(もと)る扱いをしました。オース トラリアのカウラ収容所での日本軍将兵捕虜何百人もが自殺行為の集団脱走をした事件 の背後には、沖縄戦の場合のように、自決を強制し、投降を許さず、捕虜になることを 禁ずる軍司令部の教育がありました。

その教育のため日本軍は、敵軍の捕虜を人間とは みなさなかったのです。 強制労働ののち日本に移送された捕虜たちを待っていた処遇は、軍需工場や炭鉱などで の重労働、栄養失調、重傷も重病も、ただ放置されることなど、苛酷なものでありまし た。多くの捕虜が故郷に帰ることができず、この異国で生命を奪われました。 連合軍捕虜のうち、一千八百余名は、横浜市保土ヶ谷の英連邦戦死者墓地に眠っています。それらの犠牲者の家族、その身近な方々の日本軍に対する怨念の深さは量り知れません。

そこで戦後五十年を機に、1995 年、この墓地で初めての「戦没捕虜追悼礼拝」を私たちは執り行いました。
礼拝の原点は、憎しみの消えない犠牲者と日本人との和解 のきっかけが与えられることです。
それにより、世界の恒久平和の実現が可能になるの です。

「英連邦戦没捕虜追悼礼拝の趣旨」より抜粋

5つの柱

追悼礼拝に参加された方々の声

今回礼拝に参加して感じたことは、私たち若い世代がこのような礼拝に脚をはこんで実際に墓碑を見る、そういった小さな経験から教育は始まるのではないかということです。自分たちと同じように、学問やスポーツ、そして恋に若いエネルギーの全てをぶつけたかった若者がほんの半世紀前には死を選ばなければならなかった。その事実を墓碑から知ることによって、自分の生き方を見直すことができるのではないでしょうか。 

K.M(学生)

英連邦墓地にて、眠っている方のほとんどが、20才代であることを実感しました。墓に刻まれた名前や年令、所属部隊の名前を目にすると、一人一人の顔がなんとなく浮かび、奪われた命の重みを感じました。同時に20才代で死を迎えなければならないつらさやくやしさ、怒りを自分のことのように感じたのです。日本軍がきちんとジュネーブ条約を守ってさえいれば、捕虜に対する正しい認識と理解があったならば、起こりえなかった悲劇も多くあったと思います。整然と並べられたお墓は、それを物語っていました。 

C.E(学生)


歴史/資料

1995年8月5日、戦後50年を機に、故永瀬隆氏(元陸軍通訳・青山学院OB)、故斎藤和明氏(国際基督教大学名誉教授)、雨宮剛氏(青山学院大学名誉教授)の3氏の提唱により、当墓地における日本人による初の追悼礼拝が行われました。以来毎年8月の第1土曜日、午前11時から追悼礼拝を行なっております。


墓地に眠る人々

墓標には”A. BAILEY/ THE DEARLY LOVED HUSBAND OF MARGARET AND DADDY OF MERVICE. REST IN PEACE.”「心より愛すべきマーガレットの夫であり、メルビスのお父さん。安らかに。」と書かれています。26歳で亡くなっています。この方の甥であるテリー・アトキンソンさんは第16回の追悼礼拝に参加してくださいました。

捕虜たちの声なき声に耳を傾けて(5) 2018

英連邦墓地はいつも深い緑と静寂に包まれていますが、整然と並ぶ1800余りの墓碑の1つ1つに様々な生と死のドラマが秘められています。私たちは、遠い異国で無念の死を遂げた捕虜たちの声なき声を聴き取ろうと長年調査をしてきました。今回はその中から3つの話をご紹介します。

(2018.8.4 POW研究会 田村佳子&笹本妙子)

■カナダ区 AプロットB列12 Murray Goodenough 1943年12月22日死亡(18歳)

横浜の英連邦軍戦死者墓地に眠る兵士の大半は20代であることにお気づきでしょう。彼らの両親、婚約者、新婚の妻や幼い子供達はその悲しい知らせをどのように受け止めたのでしょうか。この墓地に眠る一番若い兵士は一体誰でしょうか。カナダ区に行くと彼のお墓を見つけることが出来ます。齢18歳でした。

1941年11月16日、香港を防衛する英国軍支援の為、1975名のカナダ兵が到着しました。彼らはジャマイカで基礎訓練、後は香港へ向かう船上で受けたのみの急ごしらえで未熟な部隊、戦場経験は皆無、装備も不完全なものでした。マレーもその一員で当時16歳、激しい襲撃に直に立ち向かうこととなりました。12月7日、日本が真珠湾を攻撃、カナダ兵たちは程なく進撃して来た日本軍に対峙。彼らは充分訓練され、既に戦場経験が有り、しかも完全装備のつわもの達でした。聖なるクリスマスイブは阿鼻叫喚の戦闘となり、翌クリスマスの日に降伏、264名の兵士が戦死、生存者は全員日本軍の捕虜となりました。

1943年1月19日、英国兵を含む約660名のカナダ兵が香港を出発、龍田丸にて3日後、日本に到着、マレー達500名のカナダ兵が東京第3捕虜収容所に送られました。横浜鶴見造船所での使役で、マレーにとって終焉の地となりました。カタル性肺炎でした。

生還し、この墓地を訪ねた元捕虜達はよくマレーの勇敢さを口にしました。香港陥落時の戦闘での彼の精悍さが称えられ、専攻十字章(兵士としての最高の名誉の勲章)を授与されました。マレーが入隊したのは1939年10月、僅か14歳という事実に胸が詰まります。

マレーの死の悲しみはあまりにも大きく、家族は以後口をつぐみ、後の世代には彼の話がほとんど伝わっていません。香港のスタンリーにある聖ステファン・カレッジの資料館に彼の遺品が箱に納められ、展示されています。

■納骨堂: パネル3 Edgar Harold 1943年2月12日死亡(45歳)

エドガー・ハロルドは息子であり、夫、父、また2人の祖父でもありました。1897年イギリスに生まれ、1943年日本で亡くなりました。1939年、42歳にして英国砲兵隊員に配属されました。既に二人の娘を病気で失い、更に当時21 歳の娘が出産で瀕死状態にあり、彼自身の7番目の息子が生まれたばかりの時のことでした。基礎訓練を受けた後、彼の連隊は装備し、東部からスコットランドに移動し、船団を仕立てた軍艦に乗り込み、イラクのバスラに向け出発しました。南アのダーバンに到着する頃、日本が真珠湾を攻撃したとのニュースが入りました。1941 年12 月21 日、部隊は編成しなおされ、エドガーはシンガポール防衛に向かう4隻の軍艦と2隻の護衛艦から成る船団に加わりました。武器や必要な物資はバスラに行ってしまいました。エドガーの部隊はシンガポールからジャワの精油所の防衛に向かうことになりました。劣勢化する戦闘に降参が示唆され、英国兵たちは満員列車に乗ってジャカルタに行き、そこから 戦地に赴くエドガータンジョンプリオクまで行進、1942 年3 月8 日日本軍に降伏しました。捕虜となって7 カ月後の10 月、千人超(記録では2700 名)の捕虜達がぎらつく太陽の下、5 キロ程をよろめきながら歩き、吉田丸に詰め込まれました。船内の環境は、食事を含め、極めて悪く、3 日後の10月26 日シンガポールに到着しました。次に「しんがぽーる丸」に乗り込む前に、赤痢・コレラの検査が有りましたが、その結果を待たずして10 月30 日、日本に向けて出航しました。ゴキブリやネズミのいる不潔な船で、捕虜達の入れられた船倉は身動き出来ないほど混み合い、食事は乏しく、病人には薬もありませんでした。1081 名の捕虜が輸送されましたが、台湾を経由し11 月25 日、ようやく日本に到着した折、船外に出られたのは677 名のみでした。航行中に、また到着時の死亡者が多数ある中、エドガーは門司の検疫所に連れて行かれた35 名のうちの一人でした。彼はそこで1943 年2 月12 日に亡くなり、火葬され、遺骨は門司の大雄寺の共同墓地に埋葬され、戦後横浜の英連邦軍戦死者墓地に移送され、納骨堂に英・蘭・米の334 名の捕虜達と共に眠っています。今日に至るまでエドガーの家族は誰ひとり横浜に墓参する機会に恵まれないでいます。エドガーの一番下の息子は今年79 歳になります。父親の記憶は皆無ですが、皆様が父親について小文を読んで下さることを大変に喜んでおります。 ―――エドガーの孫、マリリンより (訳、田村)

訳者注:昨年末、初めて連絡を頂いたこのエドガーの家族によると、年配者が兵士になることは稀なケースでは無く、ご夫人は7 人の子供を抱えて留守を守り、行方不明の報にも夫の無事帰還を願い続け、死亡通知を受けたのは、戦後でした。が、その後も大変気丈に暮らされたそうです。

■ 戦後区A プロットA 列12 Anthony John Hatfield 1948 年1 月28 日死亡 (生後1 日)

インド・パキスタン区の上にある戦後区に足を踏み入れたことはありますか? ここには第2 次大戦後に亡くなった人々や朝鮮戦争の戦死者が埋葬されていますが、生後1 日とか1 週間といった幼子までいます。この子たちはなぜここに眠ることになったのでしょう? その謎の1 つが解けたのは2012 年10月、日本外務省の招聘で来日したオーストラリアの元捕虜・抑留者の方々がこの墓地を訪れた時のことでした。その1 人、元抑留者のエルサ・ハットフィールドさんの息子さんが眠っていたのです。エルサさんは1923 年に上海で生まれ育ちましたが、18 歳になった1941 年12 月、家族と離れてオーストラリアに帰国途中、太平洋戦争が勃発し、フィリピンに抑留されました。抑留生活は苦難の連続で、栄養不足のため多くの人が脚気、疥癬、潰瘍などに苦しみ、死亡者が続出しました。食べ物を求めて抑留所から脱走した男性は即座に銃殺され、エルサさんは日本人に対して激しい敵意を抱きました。しかし1945 年2 月、米軍の奪還作戦によって抑留所が解放され、エルサさんは無事オーストラリアに帰ることができました。戦後、エルサさんはオーストラリア陸軍に入隊し、英連邦占領軍の一員として日本に派遣されました。駐留中に出会ったオーストラリア軍人と結婚して広島県の呉に住み、親切な日本人とも知り合い、幸せな生活でしたが、一方で広島原爆の惨禍を目の当たりにし、日本の人々も苦しんでいることを知りました。やがて身籠り、母になることを楽しみにしていましたが、生まれた息子アンソニー君は10 時間しか生きることができませんでした。彼は四国の墓地に埋葬されましたが、その後横浜の墓地に移されていたことが今回の招聘によってわかりました。彼女は息子の墓碑に、夫・娘・孫娘と撮った写真を手向け「今は日本人に対して敵意は抱いていません。皆さんは素晴らしい国を築きました。日本がずっと平和で幸せでありますように」と語りました。

※捕虜に関する情報は、POW 研究会HP をご覧下さい。http://www.powresearch.jp/jp/index.html



英連邦戦死者墓地へのアクセス

住所

神奈川県横浜市保土ケ谷区狩場町238

アクセス

JR横須賀線保土ケ谷駅東口から市営バス53系統永田台経由「平和台折り返し場」行きで(約12分)「永田台公園」下車、進行方向右に徒歩3分


英連邦戦没捕虜追悼礼拝

英連邦戦没捕虜追悼礼拝実行委員会

代表 奥津 隆雄