「平和と和解に向けて―英連邦戦没捕虜追悼礼拝の継承」
豊川慎
1.はじめに
保土ヶ谷の英連邦戦没者墓地には、泰緬鉄道での強制労働の後、日本に移送され、日本の軍需工場や炭鉱でも重労働に従事させられ、祖国に帰れずこの異国の地日本で生命を奪われた1873名の連合軍捕虜が眠っている。泰緬鉄道とは、日本軍が第二次世界大戦時にインド侵攻のためにタイ(泰)とビルマ(緬間、現在のミャンマー)の間に敷設した悪名高い軍事鉄道である。タイのノンプラドックからビルマのタンビザヤまで総距離415キロに及ぶ鉄道であり、1942年8月に着工、翌年10月に完成している。この敷設工事には多くの連合軍捕虜と東南アジア各地からの労務者が動員され、劣悪な状況下での過酷な強制重労働ゆえに多くの命が奪われたことで知られる。連合軍捕虜の犠牲者の数は6万8千人、また東南アジア労務者の犠牲者数は20万とも30万人とも言われるがゆえに泰緬鉄道は「死の鉄道」とも呼ばれている。
1995年8月5日、戦後50年を機に、「憎しみの消えない犠牲者と日本人との和解のきっかけが与えられること」を願い、永瀬隆、齋藤和明、雨宮剛の三氏が呼びかけ人となって執り行われたのが英連邦戦没捕虜追悼礼拝であり、以降、毎年8月第一土曜日午前11時から追悼礼拝実行委員会の主催により追悼礼拝が行われている。
齋藤和明先生によって書かれた追悼礼拝の趣旨文は追悼礼拝実行委員をはじめ礼拝参加者に宛てた斉藤先生からの遺言の書ともいえる。追悼礼拝を通じての平和と和解に向けた歩みを次の世代に継承していくためにも、追悼礼拝の趣旨文を深く理解していくことが今後ますます重要となろう。そこで本稿では、趣旨文に記されている「謝罪」、「和解」、「不戦」、「追悼」、「平和の継承」という5つの点に特に焦点を合わせて追悼礼拝の意義を改めて考察するとともに、今後の課題についても論じることにしたい。
2.謝罪と和解
趣旨文には「礼拝の原点は憎しみの消えない犠牲者と日本人との和解のきっかけが与えられることです。それにより、世界の恒久平和の実現が可能になるのです」と記されている。追悼礼拝の原点、つまり平和の実現のためには和解が必要とされるということがここに明記されている。では和解とは一体何か、またいかにして和解は可能となるのだろうか。趣旨文によれば、「怨恨と憎悪を克服し、過去の事実を直視し、我が国の戦争責任を認識し、被害者へ謝罪すること、それが和解の前提です」と書かれている。これは示唆に富む重要な指摘である。ここには和解の前提となる事柄、言い換えれば和解に向けたプロセス過程が記されているからに他ならない。過去に何がなされたのかという事実に向き合い、日本の戦争罪責を認め、謝罪の言葉を述べること、このことがなされて初めて赦しを請うことができ、それによって和解の可能性が開かれる。
和解とは英語でreconciliationであり、ラテン語reconcilioという語に由来する。「仲介する」、「仲を取り持つ」という意味のconcilioに「再び」という意味の接頭語reが付随してreconcilio、つまり「回復する」、「和解させる」という意味を持ち、断絶した破れた関係が再び回復されるということが和解概念の語源的意味である。和解とは関係性の回復を意味するのであるから、当然ながら、和解の相手となる被害者である他者の存在が前提とされる。実際に、追悼礼拝の呼びかけ人の一人であった永瀬隆氏は戦時中の日本軍の虐待行為を自己の罪として引き受け、謝罪し、赦しを請うことによってエリック・ローマクス氏やアーネスト・ゴードン氏など連合軍元捕虜たちとの和解を成し遂げた。ここにはいわゆる「加害者」と「被害者」という当事者同士の和解があった。しかし、今なお残されている喫緊の課題は被害者と国家との和解に関してであろう。被害を受け今なお心身ともに癒されない傷を負っている方々や遺族にとっては、国家間の条約によって戦後補償は解決済みであるという回答に納得することは難しい。戦争遂行の責任は国にあるのは明確であるから、個人による謝罪あるいは市民社会のアクターによる謝罪よりも、何よりも国が明確に謝罪を表明し続け、誠実な対応で補償に応じることが求められている。
では保土ヶ谷の地における追悼礼拝を継続することによって目指そうとする和解とはどのようなものであろうか。追悼礼拝は英連邦戦没者墓地で行われるゆえに連合軍犠牲者とその遺族に思いを馳せる機会となる。そして和解の問題として同時に思いを馳せ考えなければならないと思うのは、趣旨文に「クワイ河流域の「泰麺鉄道」敷設工事では、強制重労働と残虐行為により、現地労務者を含め、数十万人が犠牲になったのでした」と記されているように、アジア人労務者の犠牲者の方々のことである。その正確な実数は分かっていないが、ビルマ、タイ、マレーシア、インドネシアなど東南アジア各地からの労務者の多くが犠牲になった。連合軍捕虜犠牲者の遺骨・墓地調査に従事することにより東南アジア労務者の多大な犠牲を目の当たりにした永瀬氏は戦後、元労務者の子どもたちや孫に奨学金を送るなどの働きをし、アジア人労務者との和解のために働いてこられたことは記憶されるべきことである。永瀬氏の戦後の贖罪運動は国家がすべき戦後処理を個人が引き受けようとするものであった。そのことが果たして可能なのかという問題は別にして、追悼礼拝を毎年継続して行うことは、市民社会の側から和解の問題に関して絶えず関心を喚起し、日本の過去の過ちを直視し続けることとなり、追悼礼拝を通じて謝罪の意を表し、赦しと和解のメッセージを送り続けることによって、平和の実現に寄与していくことになろう。
3.不戦の誓い
趣旨文には次のような不戦の誓いが記されている。「私たちはいかなる戦争に対しても反対の意を表明いたします。それは、人間の歴史を省みる時、いかなる戦争も正義の戦争はないことを学ぶからです」。趣旨文で言及されている「正義の戦争」とは一体何であろうか。次にこの点について考えてみたい。
「人間の歴史」とりわけ、キリスト教では「戦争」がどのように捉えられてきたのであろうか。歴史的に言えば、キリスト教には大きく分けて二つの戦争観があると言える。「平和主義」(pacifism)と「正当な戦争」(just war)という考え方である。「平和を実現する人々は幸いである」(マタイ5:9)というイエスの言葉があるが、いかにして平和を実現するのかということをめぐって、言い換えればキリスト教は戦争をすることが許されるのかという問題はキリスト教の初期の頃から今日に至るまで絶えず議論されてきた。
キリスト教の歴史において、3世紀ごろまでは平和主義であったと言われている。キリスト者はローマ帝国における兵役を拒んだが、それはイエスの平和の教えのゆえであるということと、もう一つは兵役に就くと軍隊においてローマ皇帝を神として崇拝することが強いられたためであったとされる。迫害を受けたものの、初代教会のキリスト者たちは兵役を拒むことが出来た。当時のキリスト者はローマ帝国全体から見ると少数派マイノリティーであった。皇帝ネロを始め、歴代のローマ皇帝たちはキリスト者たちを迫害した。しかし決定的な変化が訪れる。それはローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教に改宗し、キリスト教が公認され、その後キリスト教がローマ帝国の国教になったということである。これによって新たな問題が生じるようになった。つまり、ローマ帝国における兵役の責任とキリスト者としての信仰をどのように調停するのかという問題である。今までは少数派であったため、外部からローマ帝国をいかに守るかということはキリスト者たちにとっての主な関心ではなかった。しかし、ローマ帝国がキリスト教国家となったため、絶対平和主義の立場ではない、戦争観が生じて来ることになる。それが「正しい戦争」(justum bellum, just war)という理論である。古代ローマ帝国の末期を生きたアウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354-430)が「正当な戦争」の語を用いているが、彼は「合法的な権威」、「正当な理由」、そして「正しい意図」があれば、その戦争は正しいと言えると考えた。この「正当な戦争」論は中世の神学者トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225頃-1274)によってさらに詳しく論じられるようになった。16世紀に当時のローマ・カトリック教会を批判し、ルターによる宗教改革が行われるようになったが、例えば、カルヴァンにしても中世から続く「正しい戦争」論の立場にあったといえ、17世紀のピューリタン革命期に作成された代表的なピューリタン文書である『ウェストミンスター信仰告白』の第23章「国家的為政者について」第二項には次のように記されている。「キリスト者が、為政者の職務に召されるとき、それを受け入れ果たすことは、合法的であり、その職務を遂行するにあたって、各国の健全な法律に従って、彼らは特に敬虔と正義と平和を維持すべきであるので、この目的のために、新約のもとにある今でも、正しい、またやむを得ない場合には、合法的に戦争を行うこともありうる」。このような「正当な戦争」観がヨーロッパのキリスト教の主流の考えであり続け、平和主義の立場は西欧キリスト教の歴史において少数派であった。その後、近代にかけて「正しい戦争」の理論はグロティウスやプーフェンドルフなどの国際法学者たちによって詳細に論じられるようになった。以上、キリスト教史における「正しい戦争」という戦争観について概観したが、ここで注意しておかなければならない点は、「正当な戦争」論は戦争それ自体を望ましいものとして肯定する理論ではなく、やむを得ず戦わねばならない場合の基準、つまり正しい武力行使か否かの基準として法的に明確化されていったということである。その条件ないし基準には「開戦法規」と「交戦法規」があり、簡略化して言えばそれは次のようなものである。
A)開戦法規(jus ad bellum)
• 「正当な目的」:戦争の目的・意図が正しいこと。戦争は平和の復旧という目的のためであって、復讐や報復であってはならない
• 「正当な理由」:理由・原因が正当であるとされなければならない。不正義に対する戦いでなければならない。不正義とは歴史一般に侵略を指し、自国の領域の防御のための戦いであること
• 「正当な権威」:合法的な政府・国家のみがそのような戦争を通告後に遂行することができる。私人や一般市民は戦争をすることは出来ない
• 「成功の見通し」:戦争は勝ち得るものでなければならない。無駄な戦いに従事するべきではなく、実現可能な目標を成すためにのみ戦う
• 「最後の手段」:戦争は最終的手段でなければならない。すべての他の手段が真剣に試みられなければならない。平和的な外交手段が尽くされていなければならない
B)交戦法規(jus in bello)
• 「手段の限定」
• 戦闘員と非戦闘員の識別:非戦闘員、中立者、第三者は害されてはならない
• 存在する法律や条約は(例えば、戦争の法規に関するジュネーブ協定)は尊重されなければならない
• 手段は目標とつり合ったものでなければならない。
以上が「正当な戦争」の基準である。当然ながら「正当な戦争」という考え方には多くの批判がある。この戦争が正しいと判断するのは誰なのか、本当に正しいと言えるのか、戦争に正しいも正しくないもないのではないかという批判はその一例である。そもそも今日、戦争は原則として違法である。しかしながら、現実には「武力行使」という名で戦争が行われている。そのような現実を踏まえ、安易に武力に訴えるという考えにならないためにも、逆説的ではあるが、「正当な戦争」の基準を用いて戦争批判を行うことが重要ではないだろうか。例えば、「ヒロシマ・ナガサキ」の原爆、そして無差別爆撃などは従来の戦争観それ自体を一変させ、古代や中世の時代の戦争と近現代の戦争とではその規模や威力は桁違いであり、特に核兵器が使用されると戦闘員と非戦闘員の区別は不可能であるがゆえに、上記の「交戦法規」に当てはめれば、「正しい戦争」など今日ではあり得ないということになる。二度と戦争を繰り返してはならない、そのためには戦争の悲惨さを次の世代に十分に伝えるとともに、追悼礼拝の趣旨文に明記されているように、いかなる正当な戦争ないし正義の戦争もあり得ず、また歴史を振り返ってみてもそうであったということを深く捉えていくことが重要である。
ここであらためて趣旨文が次のように書き始められていることに注目したい。「敗戦(1945年)ののち新憲法が日本に生まれました。「再び戦争の惨禍」を起こさないことへの決意、「恒久平和」への「念願」、全世界の人々が「恐怖と欠乏から免れ、「平和のうちに生存する権利を有すること」の「確認」が示される「前文」につづき、「戦争」と「武力による威嚇または武力の行使」は「永久にこれを放棄する」、「戦力は、これを保持しない」という第九条がある、1947年の「日本国憲法」です」と。今日、解釈改憲、集団的自衛権など様々な問題があり、憲法9条が骨抜きにされていることは否めない。日本は「戦争放棄」と「戦力の不保持」を憲法に規定した唯一の国であることの意義はいくら強調してもしすぎることはない。追悼礼拝はこの点を強く訴える場であり、ここにその大きな意義の一つがあると言えよう。
4.追悼
毎年、追悼礼拝が執り行われているが、そもそも「追悼」とは何かということをあらためて問うこともまた重要であろう。一般に「追悼」はしばしば「慰霊」と混同されがちであるからである。『三省堂 国語辞典』によれば、「追悼」とは「死んだ人の生前を偲び、惜しみ悲しむこと」であり、「慰霊」とは「死んだ人の霊を慰めること」と定義されている。この定義を見ても「追悼」と「慰霊」はその意味において相異なるものであり、「死んだ人の霊を慰める」慰霊の行為はキリスト教になじむものではない。そもそもキリスト教では人間に「死んだ人の霊を慰める」ことができるとは考えない。それゆえ、英連邦戦没者墓地における追悼礼拝は犠牲になった1873名の犠牲者たちの「霊を慰める」慰霊式ではなく、あくまで犠牲となった方々に思いを馳せて想起する「追悼」をキリスト教の礼拝形式で行うものである。当然ながら、誰にでも広く開かれている追悼礼拝に参加される方々の思いや感情は多様であり、「慰霊」の思いで参加される場合もあるに違いない。それは参加者個々人の思いに任されることである。しかし、私自身も含め追悼礼拝の主催者側では「追悼」が意味する事柄を深く捉え、なぜ追悼するのか、その意味と意義を問い続けることは重要であろう。この点において、犠牲者の方々を追悼する「空間」、「場」としての意義について考えたい。キリスト教の聖餐式においてイエスの十字架の死とそれによる罪の贖いがパンとブドウ酒によって可視化され、想起される時となるように、戦争の記憶がより鮮明かつ具体的に想起されるのも可視的なものを通してであろう。それは例えば、追悼碑であり、戦没者墓地などがそうである。そこは共に悲しみを共感する空間となり、二度と戦争を繰り返してはいけないとの思いを新たにする場となる。戦争を知らない世代にとっては、なぜこの場所にこのような墓地があるのかという関心から歴史を学ぶきっかけになるであろうし、実際に平和教育のフィールドとして追悼礼拝に毎年多くの高校生たちも参加していることは戦争の記憶の継承という観点からして大切なことである。
趣旨文には英連邦戦没者への追悼のみならず、「私たちは先の戦争で犠牲となった310万人ともいわれる日本人同胞、また2千数百万にも及ぶアジア人同胞の犠牲者の死に対しても追悼をするのです」と記され、それに続いて「今の私たちの平和は、そのような計り知れない犠牲の上になりたっているものと考えます」と書かれている。確かに、多大な犠牲の上に私たちは戦後日本の平和を享受してきた。そして、趣旨文に記されているように、「この平和を次世代にも引き継ぐため」、私たちは「この追悼礼拝を継続し、「平和を創りだす者」として、戦争の記憶を継承」していくのである。では次世代に引き継ぐ「平和」とは何か。さらにこの点について考えてみたい。
5.平和の継承
平和とは一般に戦争の対概念と考えられるが、次世代に平和を継承するためにも私たちが享受している「平和」をその概念自体を含めて改めて問い直してみることが今日必要ではないだろうか。現状の適切な認識を欠いては次世代に平和を継承できないからに他ならない。そこで「平和学」がいうところの「平和」概念をここで概観しておくことは有益であろう。
「平和学」(peace studies)という学問分野がある。それは、平和とは何か、平和をいかに実現するのかということを探求する分野であり、国際関係論や政治学や社会学などの人文社会科学の境界線を越えて、それぞれの専門分野から「平和」という価値を学際的に追求する比較的新しい学際分野である。平和についての考察は古くからあるが、「平和学」というものが生まれたのは1950年代のことである。多くの犠牲者を出した第二次世界大戦が終わり、世界に平和が訪れることを人々は希求したものの、その後の東西の冷戦構造の中で、アメリカとソ連の両大国の間での核の開発競争が進み、平和が再び脅かされる状況への危機感の中から生まれたのであった。
従来、平和とは戦争のない状況のことだと考えられてきた。「平和を欲するならば、戦争に備えよ」という古代ローマの格言が示しているように、平和と戦争は二項対立的に捉えられてきた。しかし、戦争がなければ平和かと言えば、決してそうではない。戦争がない状況にあっても、例えば、貧困や差別、環境破壊や人権侵害などによって生活や生命を脅かされているとすれば、平和裡に生きているとはとても言えない。戦争以外の平和を阻んでいる様々な要因を考えなければならない。この点を指摘したのが平和研究に先駆的な貢献をしたノルウェーのヨハン・ガルトゥングという政治学者である。相対するのは戦争と平和ではなく、暴力と平和であり、暴力がない状態こそが平和だと論じ、「直接的暴力」、「構造的暴力」という概念を用いて暴力とは一体何かということを再定義した。「直接的暴力」とは、戦争や武力紛争などを指す。相手に直接ダメージを与える暴力形態だからである。それに対して、「構造的暴力」とは、貧困や差別、そして経済格差など社会の中に構造化されている暴力形態を指す。日本の平和について考える際、沖縄の基地問題や原発の問題、またヘイトスピーチの問題などを構造的暴力という観点から捉えなおすことが平和学からの問いとして挙げられる。平和学が問うているのは、戦争や紛争など直接的暴力のない世界を目指すとともに、構造的暴力のない世界をも目指し、暴力の連鎖を生み出している構造的なゆがみを矯正することにあると言えよう。戦争や内紛、テロなど「直接的暴力」の背後には、差別や貧困など様々な「構造的暴力」の現実があることをも直視し、包括的に平和をとらえていくことが求められている。趣旨文に記されている「世界の恒久平和の実現」のためにも、追悼礼拝を通じて、今「平和」とは何かを考えること、そのことがわたしたち一人一人に問われているのである。
おわりに
戦後70年の今年、戦後和解また歴史和解について多くの議論がなされている。歴史認識や戦後補償の問題など様々な課題があり、近隣アジア諸国との和解を経た真の友好関係を築くためにはわたしたち一人一人が自分自身の課題として平和について考えることが必要である。平和の実現を考える場合、取り組むべきそして考えるべき課題があまりにも多くあるので、わたしたちには何もなしえないという無力感に襲われる場合があるかもしれない。しかし、わたしたちはなにもかもすべてを行うことはできないけれども、何か一つのことだけでもコミットすることはできるであろうし、少なくとも関心を持つということはできる。英連邦戦没捕虜追悼礼拝に参加し、1873名の犠牲者たちの墓碑を前にすれば、犠牲者の方々の痛みや苦しみがどれほどのものであったかということを考えざるを得ない。
エフェソの信徒への手紙2章14節以下には、ユダヤ人と異邦人の間に敵意があったけれども、イエス・キリストにおいて双方が和解に至ったということが記されている。それまで憎しみ、敵対していた者同士が、お互い歩みより、赦しあい、関係を修復するということ、つまり和解に至るということである。当時ユダヤ人と異邦人の間には敵意という隔ての壁があったが、敵意の理由は、異邦人が神の戒めである律法を知らず、それを守り実行しなかったがゆえに、ユダヤ人が異邦人を軽蔑していたことにあった。例えば、割礼の有無などに関する律法規定はユダヤ人と異邦人の間に敵意を増幅させる原因となっていた。聖書が平和の実現ということで教えていることは、「敵意という隔ての壁」は取り除かれなければならないということ、抱くべきは憎悪や敵対心なのではなく、他者に対して寄り添う思い、他者を受容し共感する姿勢、そして隣人愛の実践である。他者の苦しみや痛みに対する共感が和解のプロセスの前提にあり、他者の存在が想定されていない和解などあり得ない。自分たちの過ちを認め、それに対する悔い改めの思いが表明されることで初めて、赦しの言葉を語ることができる。そして他者に赦され、また赦すことによってのみ和解は可能となるであろう。
ユネスコ(国連教育科学文化機関)の前文に次のような有名な言葉がある。「戦争は人の心の中で生まれるものであるから人の心の中に平和の砦を築かねばならない」。わたしたちの心に平和の砦を築くこと、これが平和を実現して行こうとする際に重要になる。聖書で言う、平和の実現とは、わたしたちの間にある敵意という壁が取り壊され、神と人との間の交わり、人と人との間の交わりが完全に回復している状態を意味する。そして敵意の壁を壊し、真の平和を実現させるものこそ主イエス・キリストにおいて示された敵をも愛する神の愛である。イエス・キリストは十字架においてわたしたちの罪を贖うために血を流して死に、その死によってわたしたちに平和を回復された。人々の間の敵意という隔ての壁を打ち壊し、神と人との和解、人と人との和解をもたらし、平和の福音を告げ知らせるために、この世に生まれたのである。この平和と和解の福音をキリスト者として真摯に受け止め、日本のキリスト教会の戦争責任の問題も含めて日本の過去の過ちを直視し続け、反省と熟考をわたしたち一人一人に促す時と場こそが、英連邦戦没者墓地における追悼礼拝なのである。斉藤先生は趣旨文の最後でこう記している。「私たちは毎年8月第一土曜日午前11時を覚え、いかなる情勢においてもこの追悼礼拝を継続し、「平和を創りだす者」として、戦争の記憶を継承していく使命を果たしてまいりたいと願っております」。戦後世代のわたしたち一人一人が担うべく託されている使命をあらためて再考し、戦争の記憶を継承しつつ、キリスト者としての平和責任を共に果たしていきたいと思う。
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