第十回英連邦戦没捕虜追悼礼拝 追悼の辞「隔ての壁をのり越えて」


大庭 昭博

 

八月六日、広島に原爆が投下された日の朝のニュースでオーストラリア・カウラの映像が流された。第二次大戦中に日本人捕虜が集団脱走をして、二〇〇人以上の死者を出した事件である。その事実にオーストラリア人は向かい合い、歴史教育として子どもに語り継ぐ試みがなされていた。日本で同じような歴史教育がどれだけなされているのか、暗澹たる思いにさせられる。自虐意識として無視されるか、圧力を受けることになろう。かつて天皇葬儀のとき、「自粛」という名の自己規制があったし、九・一一直後のアメリカのように、この重苦しさは、現代日本社会に漂っている。

八〇年前パリで開催されたオリンピックの物語を映画化した『炎のランナー』がある。二人の短距離選手、ユダヤ人とスコットランド人の対照的な姿は興味深い、後に宣教師として中国に渡ったスコットランド人エリック・リデルは、日本とも縁の深い人物である。リデルは、日本軍が設置した捕虜収容所の劣悪な環境の中で脳腫瘍に冒されて死亡する。そのような状況の中で、リデルは、ランニングシューズを渡したメティカフという少年に「日本のために祈れ」と語ったそうである。メティカフはその後、日本各地で宣教師の働きをなし、多くの日本人に福音を宣べ伝えた。

映画が日本で上映されたとき、些細なことかも知れないが、自己規制のようなものが働いている。最後の字幕の日本語訳は「エリック・リデル。宣教師。任地中国で死亡…」であるが、英語字幕のDied in occupied China at the end of World War Ⅱが欠落している。歴史の記憶からすると、この事実は小さなことではない。自国の都合の悪いことを意図的に削ることは、悪性のナルシシズムそのものである。それを支えているのは、特別に悪意をもっている人々ではない。ふつうの人である。

聖書に「敵意という隔ての壁」(エフェソ2:14)という言葉がある。これは、悪い人間だから敵意をいだくということではなく、ふつうの人々が戦争という異常な状況において残虐な行為を行ってしまう、と現代社会の文脈では解釈することができる。戦争とまではいかなくとも、ふつうの人々が自己規制において、歴史の事実に覆いをかけることに手を貸すとき、「敵意という隔ての壁」を強化してしまう。

聖書は、十字架によってこの敵意を滅ぼすと言う。イエス・キリストの十字架は、この敵意を滅ぼす和解と平和の福音である。この福音は、ふつうの人々、私たちの中にある敵意なるものを明るみに出し、その敵意を克服するようにと促す。相手の敵意は、自らの敵意によっては決して滅ぼされることはない。まず自らの敵意を取り除くことが、十字架による和解の第一歩であるべきだろう。

私たちは、現代社会、また国際社会において、報復という敵意に囲まれている。まわりがこの敵意によって満たされている社会は、健全とは言えない。重苦しい社会の中で、真実を語りそれを教育することに尻込みをし、自己規制することによって、この敵意を増長させてしまうことになる。

英連邦は、日本人にとってはかつての敵国である。この敵国犠牲者の追悼を行うことは、もっと大きなところへと目を向けさせる。日本がアジアへ行った侵略行為である。一方でこの罪責を認めたくないというナショナリズムの誇りがある。しかし、この誇りは、敵意の壁を決して取り除くことはできないであろう。カウラで行われている歴史教育は、敵意を取り除く和解とあがないの行為のひとつである。「日本人のために祈れ」と少年に伝えたリデルの言葉は、そのような祈りが凝縮されたものとして現代にも生き続けている。