2025年8月2日 英連邦戦没捕虜追悼礼拝 追悼の辞
2025年8月2日 英連邦戦没捕虜追悼礼拝 追悼の辞
マッテヤ大森明彦(日本聖公会東京教区司祭)
「平和を求める『狭い戸口』」
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」
ルカ福音書13章24節
日本がポツダム宣言を受諾し敗戦を認めて第二次世界大戦が終戦となって80年を迎えます。英連邦戦没捕虜追悼礼拝は敗戦50年を機に1995年に始まりました。ここ英連邦戦死者墓地で眠る1800余名の方たちを追悼し、日本の犯した過去の過ちを謝罪し、和解と平和を願うためです。
第二次世界大戦中に日本軍の捕虜となったイギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、インド、パキスタン英連邦諸国の兵士たち、そしてオランダ軍の兵士たちは泰緬鉄道建設の強制労働を課され多くの犠牲者を出した後、日本本土に移送され、ここでまた重労働を課されました。この方たちは戦争捕虜としてジュネーヴ条約の保護の下、戦争が終われば帰国できるはずの方たちでした。この墓地で私たちは犠牲となった方たちを追悼し、ご遺族ご関係の皆さまに謝罪し、改めて和解と平和を願います。
私たち人間は痛さや辛さを実際に経験しないと、それがどれほど苦しいものか理解できません。少しでも痛みを分かるためには、体験者の声に耳を傾け、または残された記録を読んで学ぶしかありません。そのような努力をこれからも重ねたいと思います。この礼拝が最も暑い季節の11時に行われるのは、捕虜の方たちが炎天下で立たされた痛みを追体験するためです。
聖書の伝統の中では、平和は人間を通して実現されるものであっても、根源的には歴史の完成に向けて私たちを導いている神が作り出すものです。神の平和は被造物すべてを含む包括的な平和です。私たちはイエスが徹底して暴力を否定したことを知っていますし、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言ったことも知っています。キリスト教は平和を求める宗教です。
しかし聖書には時々ドキッとする言葉が現れます。「狭い戸口から入るように努めなさい」という言葉もそのひとつです。「狭い戸口」は神の怒りの審判における「滅び」を示唆しているからです。神の国の到来とはこの世で人間が作り出す悪に終わりを告げるものです。その意味でイエスが使う「狭い戸口」という言葉も神の国の到来を指し示しています。
「言っておくが,入ろうとしても入れない人が多いのだ」というイエスの言葉には神の国からほど遠い現状に対する嘆きと怒りが込められていると思います。「見せかけの平和」や見せかけの愛を拒絶する言葉と言ってよいでしょう。この世界に実際に存在する悪や苦しみを見ても見ぬふりをし、あったことをないことにして、自分たちに都合のよい平和を作り出す生き方をイエスは受け入れません。残念ながら、日本の権力者たちは過去の過ちに目を向けることに消極的です。戦中・戦後の補償問題も解決済として見つめ直すことをしません。日本が近隣諸国から心からの信頼を得られないのもそこに原因があります。
この追悼礼拝は私たちに与えられた「狭い戸口」だと思います。ここに集う私たちは犠牲者たちの墓前で良心を自覚し、被害者たちに謝罪し、和解を願い共に平和を求めて歩む決意を新たにします。
あくまでも、キリスト教は平和を求める宗教です。「見せかけの平和」を見抜く力を養いましょう。弱い立場の人たちの苦しみの上に成り立つ平和であれば、そのような「見せかけの平和」に対していつでも「No」と言える勇気を持ちましょう。苦難の生涯に耐え抜いたイエスに従い、呼びかけ人たちの志を受け継ぎ、勇気をもって狭い戸口へ向かいたいと思います。
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