英連邦戦没捕虜追悼礼拝の趣旨

敗戦(1945年)ののち新憲法が日本に生まれました。「再び戦争の惨禍」を起こさないことへの決意、「恒久平和」への「念願」、全世界の人々が「恐怖と欠乏から免れ、「平和のうちに生存する権利を有すること」の「確認」が示される「前文」につづき、「戦争」と「武力による威嚇または武力の行使」は「永久にこれを放棄する」、「戦力は、これを保持しない」という第九条がある、1947年の「日本国憲法」です。

 第二次世界大戦中、日本は、アジア・太平洋地域への侵略により、多くの国々と国民の生命を「恐怖と欠乏」の中に陥れました。各地でその住民を強制労働に徴用し、連合国からの駐在者をも収容所に拘束留置し、国際法に悖(もと)る扱いをしました。オーストラリアのカウラ収容所での日本軍将兵捕虜何百人もが自殺行為の集団脱走をした事件(注1)の背後には、沖縄戦の場合のように、自決を強制し、投降を許さず、捕虜になることを禁ずる軍司令部の教育がありました。その教育のため日本軍は、敵軍の捕虜を人間とはみなさなかったのです。

バターン半島の「死の行進」(注2)では2万人以上が殺されました。そして、クワイ河流域の「泰緬鉄道」敷設工事(注3)では、強制重労働と残虐行為により、現地労務者を含め、数十万人が犠牲になったのでした。

 強制労働ののち日本に移送された捕虜たちを待っていた処遇は、軍需工場や炭鉱などでの重労働、栄養失調、重傷も重病も、ただ放置されることなど、苛酷なものでありました。多くの捕虜が故郷に帰ることができず、この異国で生命を奪われました。

 連合軍捕虜のうち、一千八百余名は、横浜市保土ヶ谷の英連邦戦死者墓地に眠っています。それらの犠牲者の家族、その身近な方々の日本軍に対する怨念の深さは量り知れません。そこで戦後五十年を機に、1995年、この墓地で初めての「戦没捕虜追悼礼拝」を私たちは執り行いました。礼拝の原点は、憎しみの消えない犠牲者と日本人との和解のきっかけが与えられることです。それにより、世界の恒久平和の実現が可能になるのです。

怨恨と憎悪を克服し、過去の事実を直視し、わが国の戦争責任を認識し、被害者へ謝罪すること、それが和解の前提です。わが国の指導者は日本国日本人の犯した過去の罪に目を背けています。しかし、私たちは、その罪を見据え、心からの謝罪を表明いたします。

 また、私たちはいかなる戦争に対しても反対の意を表明いたします。それは、人間の歴史を省みる時、いかなる戦争も正義の戦争はないことを学ぶからです。私たちが礼拝を行う墓地に眠る犠牲者達がまさにそのことを語っています。8月の暑い中この礼拝は行われますが、それは、そのような犠牲者達の声を聞くためです。

それを聞くことにより、私たちは先の戦争で犠牲となった310万人ともいわれる日本人同胞、また2千数百万にも及ぶアジア人同胞の犠牲者の死に対しても追悼をするのです。今の私たちの平和は、そのような計り知れない犠牲の上になりたっているものと考えます。

この平和を次世代にも引き継ぐため、私たちは毎年8月第1土曜日午前11時を覚え、いかなる情勢においてもこの追悼礼拝を継続し、「平和を創り出す者」として、戦争の記憶を継承していく使命を果たしてまいりたいと願っております。

                   2008年6月1日 起草

                    「英連邦戦没捕虜追悼礼拝」呼びかけ人一同

                     (雨宮 剛・故永瀬 隆・故斎藤和明)

                    「英連邦戦没捕虜追悼礼拝」実行委員会

*この趣旨文は、2008年にご逝去されました故斎藤和明先生の最後のお力によるものです。私たちは、これからもこの斉藤先生のご遺志を受け継いでまいります。


(注1)カウラ事件:ニューギニア戦線などで捕虜になった1,104人のうち約900人が、1944年8月5日未明、突撃ラッパを吹き、料理用のナイフ、フォークやクギを打った野球バットで武装して一斉に機関銃座に向かって突進。鉄条網に毛布をかけるなどして脱走した。231人が射殺されるなどし、105人が負傷した。オーストラリア兵も4人死亡、4人負傷。9日後に全逃亡兵が発見され、再収用された。この事件のあったカウラ市では、戦後数十年も放置された日本兵の埋葬地を見るに忍びず、帰還兵を中心に、新たに日本兵の立派な墓地を、オーストラリア兵戦死者墓地の隣接地に設け、日本公園を別に設置し、その間の道路に桜並木を通じさせている。「桜の花の咲く頃、この並木を日本兵の戦死者に歩いて庭園を見てもらいたい。」というカウラ市民の思いである。そして、カウラ市民1万は一丸となって毎年日本兵のために慰霊祭を行っている。私たちが追悼礼拝を行うのは、このことに対する国際的答礼の意味も含まれている。なお、ニュージーランドのフェザーストーンでも同じような事件が起こっている。

(注2)バターン死の行進:マニラ湾に突き出したバターン半島の攻防は1942年4月9日、アメリカ極東軍が日本軍に降伏して終了。日本軍は、激しい戦闘で消耗したフィリピン軍人7万人、民間人4万人及びアメリカ軍人1万人を、バターン半島先端のマリベレスからパンパンガ州サンフェルナンドまで100kmを歩かせ、そこからタルラック州カパスまで貨車で輸送し、さらに捕虜収容所のあるオドーネルまで12kmを徒歩で行進させた.この間食料も水も十分与えず、犠牲者は、アメリカ人1,600人、フィリピン人29,180人に達した。軍事史上「最も過酷な行進」といわれる所以である。


(注3)泰緬(たいめん)鉄道:第二次世界大戦末期、日本陸軍がインド侵攻作戦遂行のため建設したタイ(泰)国とビルマ(緬間)、現在ミャンマー、を結ぶ軍事鉄道これはタイのノンプラドックからビルマのタンビサヤに至る延長距離415キロに及ぶ鉄道で、1942年7月着工、翌年10月に完成した。英国など連合国捕虜6万8,000人とアジアから連行された20万人とも30万人ともいわれる労務者(ロームシャ)がこの建設のため強制労働させられた。過労や栄養失調、マラリヤ、コレラ、などの病気、虐待などのため、連合国捕虜は1万3,000人、アジアの労務者は(正確には分からないが)約半数が犠牲になったという。この事実は「枕木1本ごとに一人の命が奪われた」と今も語り継がれ、日本軍が戦時中行った残虐行為中最も凶悪なものとして「死の鉄道」の名で記憶されている。