「私の戦後七〇年」

戦後七〇年記念特集

関田 寛雄

この文章は、2015年3月28日(土)、富坂キリスト教センターで行われた関田寛雄先生の同名の講演会をまとめたものです。当日は2時間に及ぶ講演で、関田先生が歩まれた戦中、戦後の様子を具体的に、詳しく知る事が出来ました。戦後生まれの者が、平和とは何かについて深く考えさせられる機会となりました。関田先生にはこの場を借りてお礼を申し上げます。(T.O)



はじめに ―英連邦捕虜墓苑における祈りからー

 皆様こんにちは。関田寛雄でございます。本日は、戦後七〇年という時を迎えて、私の頭に思い浮かびます様々なことについて申し上げたいと思います。まず申し上げたいのは、この会は毎年八月の第一土曜日午前十一時から行われます「英連邦戦没捕虜追悼礼拝」の延長線上にある、ということです。この追悼礼拝は青山学院OBであり元陸軍通訳の永瀬隆氏、国際基督教大学名誉教授であった斉藤和明氏、そして青山学院大学名誉教授の雨宮剛氏の三人の呼びかけ人によって、戦後五十年を機に始められた礼拝であります。

 私は一九二八年(昭和三年)八月十八日に生まれました。八月十八日は豊臣秀吉が死んだ日であります。秀吉は朝鮮侵略をしましたけれども、朝鮮半島の平和と和解を願う私が、秀吉の身代わりとなって生まれたのではないかと思っております。現在は八六歳です。これまでの歴史を振り返り、今の平和な時代がただ事ならない犠牲の上に成り立っているということを覚え、この平和を維持する責任を強く思わされています。

1.日本軍国主義成立の背景

  第二次世界大戦がいかに激烈なものであったか、その戦争を導いたのが日本軍国主義でありました。軍国主義がどうして日本に生まれて来たのか、そのことをまず申し上げます。

1)明治政府による国民統合原理としての国家神道

 明治政府が生まれ、明治四年に、岩倉具視や大久保利通といった明治の元勲と言われている人々が、日本の国づくりのために、西洋諸国を巡回してまいりました。その時に、長年キリスト教禁教令を続けていたことが、ヨーロッパやアメリカで厳しく批判されました。帰国後直ちにキリスト教禁教令を解き、明治六年、キリスト教を公に認めるということになりました。その時、明治の元勲たちが確認したことは、西洋諸国においては国民統合の原理としてキリスト教がある。どこへ行ってもキリスト教が国家の柱として力を発揮している。しかし、日本においてはそれが何もない、ということでありました。そして、明治の元勲たちが相談して、日本の場合は伝統的な国家神道がある。神道の柱には天皇がいる。神道と天皇制を軸として国家統合の原理としようではないかと話し合いました。それが近代日本建設の柱になって行ったのです。

2)「脱亜入欧論」(福沢諭吉)以来のアジア蔑視

 それに続いて明治十八年、福沢諭吉が『学問のすすめ』に続いて『脱亜入欧論』を書きました。「脱亜入欧」とは、アジアの悪友と縁を切って、西洋の友と交わることにしよう、というものです。それが近代日本の国家形成の方向性になりました。これによって、中国、朝鮮、その他のアジア諸国に対する蔑視という方向性が日本の近代化を色づけて行きました。まもなく朝鮮半島の権益をめぐり、日清戦争と日露戦争が始まりました。そして、台湾を植民地とし、さらに朝鮮半島を併合いたしました。結局「脱亜入欧」ということで日本が行ったことは、西洋列強がアジアの国々を植民地としたように、それに負けてはいられないということで、日本も台湾や朝鮮を植民地化して行った、ということでありました。ついには満州帝国を作り、日本の植民地と致しました。それが十五年戦争の始まりです。私が今でも忘れられないことは、私が幼いころ、新聞に大きく昭和天皇と満州帝国の溥儀の写真が並んで出ていたことです。私は十五年戦争の中を少年時代過ごしました。その間、日本社会の中でどの様に軍国主義が厳しくなっていったのかを見てまいりました。

3)天皇神聖化の徹底

 私は父がメソジスト教会の牧師でありましたので、様々ないじめを経験いたしました。明治六年にキリスト教禁教令が解除されましたが、徳川幕府以来のキリスト教に対する偏見は明治政府にも続いていました。特に明治二三年の教育勅語をめぐり、井上哲次郎は「そもそも教育勅語の精神から見て、キリスト教は日本の国体に相応しくない」と論じていました。明治二二年に出された明治憲法の冒頭においては「天皇は神聖にして冒すべからず」とうたわれており、天皇を絶対神聖な日本国の中心とする天皇制はキリスト教と矛盾するものでした。そのような中で、日本のキリスト教会はキリスト教が市民権を得るようにと、日本政府に寄り添って、寄り添って自己保存を図ってきました。それが日本のキリスト教会の戦前の状態でありました。

 天皇神聖化ということにおきまして、どこの小学校、中学校にも奉安殿というのがありました。天皇夫妻の写真と教育勅語が収められている所です。私たちは登下校の際、最敬礼をしてその前を通っていました。教育の根本にまで天皇神聖化が徹底して及んでいたのです。

2.15年戦争と私

1)「牧師の子」として生きて

 私は小学校時代、大阪の吹田におりました。小学校には、ある神社の境内を通って通学していました。ある日、学校から下校する時、その境内で何人かの年上の少年たちに囲まれ「お前の父親はキリスト教の牧師だろう。キリスト教の牧師はみなアメリカのスパイだ。おまえはキリスト教やめろ」と言われました。私は八歳の時母が亡くなり、父が私に「これから後はイエス様に守ってもらわなければならないから、お前は洗礼を受けなさい」と言われ、昭和十二年のクリスマスに洗礼を受けていました。ですから「キリスト教をやめろ」と言われても洗礼を受けているのでやめられません。「いやだ。やめない」と言いましたら、足を引っ掛けられ、ひっくり返され、踏んだりけったりの暴行を受けました。そして、血を流し、泣きながら家に帰りました。しかし、どうしても悔しかったので家の物置からバールを持ち出し、仕返しをしてやろうと神社に戻りましたが、彼らはもういません。仕方がないので神社の立ち木を何回もぶん殴って帰ってきたのを覚えています。

2)「軍国少年」として生きて

 その頃からしみじみ思い始めたことは、日本社会においてキリスト教徒であるということは危険なことである、ということでした。そのため自己防衛の姿勢に入って行きました。小学校を卒業し、中学校はキリスト教主義の関西学院中学部に入りました。その頃はミッションスクールであっても軍事教練がありました。必ず1週間のうち2回、軍隊の訓練がありました。私はクリスチャンであるというマイナス条件をカバーするために配属将校の評価を得ようとしました。私が思い続けていましたことは「何とかして普通の日本人よりももっと日本人的にならなければ駄目なんだ」ということでした。私はマイノリティーの恐怖を味わっていたのです。

 その後、学徒勤労動員が始まりました。戦争につかわされた成人男子の労働力を補うため、全ての中学生は様々な形で軍関係の産業で働くことになりました。私は陸軍衛生材料廠に配属されました。そこは医療器具や様々な薬品を作っていました。私たちの作業は出来上がった医療器具や薬品を前線に送る作業です。そこでも私は「普通の日本人よりももっと日本人にならなければいけない」という思いがありました。私はすぐに班長に命じられましたが、班長として私は、朝は軍人に対する敬礼から始まり、クラスの仲間には、一条の激励の言葉を述べる、ということをしていました。

 その頃から始まったのが神風特攻隊です。先輩たちは「後に続く信ず」と言い残して飛び立って行きましたので、後に残された私たちはその責任がありました。ですから私は「今日も先輩の言葉に従って後に続こう」と言って作業に進んでまいりました。

 学校の授業では、この大東亜戦争と名づけられた戦争は、西欧の植民地支配からアジア民族を解放する聖なる戦争であると教え込まれていました。そのために天皇の軍隊は先兵として派兵されているから、皆それに続かなければならない。だから、天皇のために死ぬことは最高の栄誉だと教え込まれていました。そのようにして私たちは戦争に協力して行ったのです。

3)敗戦の衝撃と聖書との出会い

 敗戦を迎える直前の八月七日のことでした。衛生材料廠に本部から命令がありました。それは「四号倉庫にあるやけどの薬を全部出して緊急に発送するように」ということでした。そして、その薬品を詰めたふたには○広という暗号を書きました。それは、八月六日に広島に落とされた原子爆弾に対する陸軍の対応でした。そしてまもなく、八月十五日がやって来ました。

 八月十五日の放送は、私は体調を崩し、2、3日家にいましたので、家のラジオで聞きました。けれでもさっぱり分かりません。ただ「耐え難きを耐え、忍びがたきを忍び」だけ分かりました。これは戦争に負けたのだ、とその時やっと気がつきました。その当時、私の家には日本ホーリネス教団に対する弾圧を逃れてきた、ホーリネス教会のおばあさんがおられたのですが、そのおばあさんに「日本が負けたんだよ」と言うと、涙をぼろぼろこぼし「こんなに一生懸命やって来たのにね」と言って泣き出しました。しかし、その次の日から、戦争が実際終わったんだと実感しました。それは、町の電灯がつくようになったからでした。それまでは、タバコの火もつけてはいけなかったのです。グラマンという戦闘機が飛んできても機銃掃射は無く、「あー戦争は終わったんだ」と実感したのです。

 敗戦の衝撃は、今まで生きる目的だった、大東亜の解放という目的が失われたことでした。「戦争が終わり、学校が始まったが、これから何を勉強するのか。日本は負けてしまったのだ」と、とてもニヒルな思いでした。学校でとても辛い思いをしたのは同級生たちの眼差しでした。彼らは何も言いませんでしたが「先輩の声に応えて後に続こう、と訴えていたあいつは今、何を考えているのか」と彼らが言っているようでした。私はついに不登校になりました。闇市をうろつき回り時を過ごしていました。そんな時、日本共産党の出獄者が、18年の弾圧をくぐり抜け、トラックに乗ってやって来て闇市の真ん中で演説をするのを聞きました。いかに大東亜戦争なるものが欺瞞であったか。その最高責任者は昭和天皇であるということ。この天皇のもとでいかにこの戦争が間違ったものであったか。大本営の発表がいかに欺瞞であったか。そのように言うのです。18年の弾圧をくぐり抜け、節を曲げないで生きてきた人の言う言葉に私の心は打たれました。少年時代に洗礼を受けていなければ共産党に入っていたかもしれません。それほど彼らの言葉には迫力がありました。

 私はうつろな思いで学校に出始めました。学校には矢内正一という英語の先生がいました。矢内先生はJ・Sミルやミルトンの文章を黒板に書きながらそれを訳読していました。その中で矢内先生は生きるということの意味を語られました。それが私の心にしみじみと響いてくるのです。私はその先生に手紙を書きました。「先生は戦争中に、皆軍隊に志願せよ、に言ったではないか。私たちはそれを聞いてきた。今は戦争に負けて先生は何を考えているのですか。何を信じて生きているのですか。自分は分からない」と率直に手紙を書きました。いつもはすぐに返事を下さる先生が、なかなか返事を下さりません。この先生にも裏切られたかなと寂しく思いましたが、それから2週間ほどした英語の授業で「実はこのクラスのある学生から手紙をもらった。それに対して返事を書けないでいる。私自身が日本の勝利を信じていたが思いがけなくも敗戦を迎え、今とまどっている」とおっしゃられました。その時私は「この先生は私と同じ苦しみを味わっているのだなあ」と思いました。そして、この先生に対するこだわりがスーと消えていきました。ところがその先生は続けて「君たちよりも何年か長く生きた者として今言えることがあるとすれば、新約聖書のイエスの言葉の中にこういうのがある。『隠されているもので表れてこないものはない。覆われているもので、明らかにならないものはない。』(マタイ10:26)今は本当のことは隠されている。しかし、必ず本当のことはやがて表れてくる。そのことを信じて、勉強を続けようではないか」と言われたのです。その言葉は私にとって非常に深い慰めになりました。この言葉によって、私は戦後を生きていこうという気持ちになりました。

 一方、キリスト教会は戦後のキリスト教ブームになっていました。日曜日の朝は続々と人がやって来ました。戦争中は2,3人の人しか来なかったのに、戦後は教会堂が一杯になるのでした。教会に来る人の中には「戦争中日本の神様を信じて頑張ってきたけれども、日本の神様は負けた。日本の神様は弱かったんだ。アメリカの神様の方が強かったんだ。これからアメリカの神様を信じるんだ」と言っている人もいました。そのような雰囲気は私には耐えられませんでした。もう教会に行きたくなくなりました。戦争中は一体何だったのかと思い、自分の家で寝転がり礼拝には出なくなりました。そのような私を心配してくれた教会の友人は「自分の教会に行きたくなければ、こんな教会もあるよ」と、ある教会を紹介してくれました。それは小さな教会で畳の上に座って礼拝をしている教会でした。その教会はホーリネス教会でした。牧師は戦中、治安維持法違反で数年間獄中生活をした先生でした。何を言っているのかあまり分かりませんでしたが「どんなに時代が変わっても変わらない真理は聖書にこそある」と繰り返し言っていました。私はその言葉が心に残りました。家に帰り、父に「今日行った教会で、どんなに時代が変わっても変わらない真理は聖書にこそある、と聞いたが、聖書のどこを読めばそのことが分かるのか教えてくれ」と聞きました。私は初めて父と向かい合いました。それまでは、牧師の子である、というので父を恨んでいましたので、背中合わせの関係でした。栄養失調で病床にあった父は「それでは聖書を一緒に読んでみよう」と言いました。そして、詩篇51篇を読んでくれました。詩篇51編はイスラエルの王であったダビデが大変な罪を犯し、その悔い改めをうたったものです。そこには「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。」(12節)とあります。このダビデの祈りが私の祈りになりました。さらに読んでいきますと「もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。/しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」(18,19節)とあります。私はこの言葉に触れ、ずたずたになり、何もなくなってしまった自分の砕かれた心は神様の喜ばれるいけにえなのだ、と分かり涙が出ました。それが私の聖書との出会いでした。その二つの聖書の言葉によって私は何とか立ち上がり、戦後を生きようという気持ちになりました。

3.川崎に遣わされて

 その後私は青山学院大学の文学部神学科に入学いたしました。そこで私は恩師に出会うことが出来ました。その恩師は浅野順一という旧約聖書の学者でありました。神学科の学科主任であり、牧師でありました。この方は決して人間的に完全な方ではありません。欠点の多い人間でしたが、ただ自分の弱さを十分に知り尽くした上で、本当に神様の憐れみに生きている方でありました。私はその先生の導きにより、川崎で教会作りに入りました。桜本という地でありました。9坪の礼拝堂と4畳半の私の部屋がありました。桜本を始め、浜町、池上町、大島という町は、強制連行されて来た在日韓国朝鮮人の家族が4千人ほど住んでいる所でした。

1)李仁夏牧師との出会い -日本人へのラヴコールー

 一九五九年に李仁夏牧師が近くの韓国人教会に赴任してまいりました。そして、私のところにあいさつにやって来られましたが、仁夏牧師は「あいさつに来たのに申し訳ないが、実はお願いがある。私の長男を近くの小学校に入れようと思ったら、そこの校長が、かつての植民地の朝鮮人たちは入学するのに日本人の保証人を立てろ、と言った」と言うのです。私は驚きましたが、保証人になりました。日本人の校長先生がそういう認識だったのです。

 仁夏牧師とは多くの行動を共にしました。日立電気の就職差別問題の裁判闘争。公立学校のいじめ問題。指紋押捺問題など、四九年間を彼と一緒に行動しました。仁夏牧師は八三歳で亡くなりましたが、自分の葬式の最後の式辞の言葉は関田にしてもらってくれ、と家族に遺言されていました。三六年間の朝鮮植民地支配がどんなにひどいものであったか、仁夏牧師は自ら体験してきたにもかかわらず、日本人の私に最後の言葉を述べるように依頼されたのです。私はとても彼の友情を感謝し、光栄に思いました。ですから私はずっと仁夏牧師の遺志を継いで、今でも彼の作った福祉法人「青丘社」の後援会会長を続けているのです。死ぬまでやるつもりです。

 日本の保育園は韓国人を入れない、というので、仁夏牧師の奥様が保育士の資格を持っていましたので、仁夏牧師夫妻は教会の礼拝堂を使って韓国人の子供たちのための保育園を始められました。それが桜本保育園でありました。ところが、保育園という看板を出したところ、その頃保育園不足だったので日本の親たちが駆けつけて来たのです。韓国人の子どもたちは拒否しておきながら、日本人の子どもたちは入れてくれ、と言うのです。仁夏牧師はその時二つのことを言われました。一つは民族名を大事にしてお互いに自分の民族の名前を呼び合うことにしましょう。もう一つは「あなたの隣人を愛しなさい」(マルコ福音書12:31)というイエス様の戒めを保育園の原則にして行く、ということでした。この二つのことが了解されればだれでも入れます、ということでした。結局六対四で日本人の子どもの方が多くは入ってきました。そのような日本人と韓国人の民族統合の保育を続けられました。

さらにそれは学童保育に進みました。それが川崎市の伊藤三郎市長に認められ、川崎市は「ふれあい館」という施設を設立しました。そして、その運営を「青丘社」に委ねました。ところが、地元の桜本の町内会長たちや子ども会会長が猛反対をしました。韓国人に福祉法人に委ねたら、結局韓国朝鮮人の施設になってしまう、と言うのです。ビラまで作ってまいていました。そこで、仁夏牧師と現理事長のペ・チュンド氏と私の三人で雨の降る中を町内会の会長の家を一軒一軒回りました。時には玄関先で「おまえたちの言うことを聞く耳を持たない」と帰されたこともありました。結局、川崎市のほうで妥協したことは、三年間は市の職員を館長にし、実績を見てその後のことは考える、ということでした。町内会の会長もそれで納得し、日本人の教育委員会の人が館長として赴任しました。そして、実際利用したのは、もちろん韓国人もいましたが、日本人の子供、老人でした。日本人と韓国人が一緒になって食事をし、触れ合う場が出来たのです。そして地元にすっかり定着して、皆が「ふれあい館」を喜んでいたのです。そして韓国文化が日本社会に融合していきました。そういう歴史を作ったのが仁夏牧師でした。その仁夏牧師の功績が今でも川崎市の教育委員会に残っています。川崎市は「川崎市在日外国人教育基本方針」を日本の他の市町村に先駆けて出し、在日外国人教育を教育委員会がきちんと受け止めて行うことにしたのです。新任の教師は一年間、民族差別の学習をすることが義務づけられました。

2)「戦争責任告白」との出会い -悔改めと共生―

 日本基督教団は、十五年戦争に協力するように「宗教団体法」(一九三九年)により、他の宗教と共に、再編成されて生まれた教会です。戦後、一九六七年日本基督教団の「戦争責任告白」(注参照)が公にされました。かつて日本の教会は自分の組織を守るために、日本政府にすり寄って、すり寄って自己保存を図りました。今思えば恥ずかしいことですが、日本基督教団は「日本基督教団号」と名前の付いた戦闘機2機を献納しているのです。また、何十人もの英語の出来る牧師をフィリピン、インドネシア、シンガポールなどの国に派遣し、大東亜戦争がいかにアジア民族を解放する戦争であるか、ということを宣伝させたのです。しかし一方、朝鮮半島においては、朝鮮語での礼拝を禁じたりしているのです。日本基督教団統理が行ってそれを命令しているのです。皇民化政策として、朝鮮半島の民族名を奪い、言語を奪い、信仰を奪いました。台湾でもそうでした。

 そのようなことをしておいて、戦後あたかも何もなかったかのように伝道が始められるわけがありません。そこで、遅まきながらですが、一九六七年になってから鈴木正久教団議長によって「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」が初めて出されました。これは戦争協力をした日本キリスト教会の罪を悔い改めて、アジアの民衆と共に生きて行く、という悔い改めの宣言であります。この「戦争責任告白」は日本基督教団が教会として存続する限りはこの告白が土台となり、これを前提としないでは教会であることは出来ないと考えております。

 その後、キリスト教各派、聖公会、バプテスト、ルーテル、カトリック教会も続々と戦争中のキリスト教会の責任について告白し始めました。他の宗教、仏教、浄土真宗や曹洞宗にしても、みな戦争中の戦争協力の責任を悔い改め、反戦宣言をしているのです。この宣言が始めとなり、非常に大きな役割を果たしたのです。ですから、これからは宗教団体がこぞって、人権と平和のために協力しなければいけない時代だと思います。

3)河川敷部落の中で -「在日」との出会いー

 その後、私は川崎の戸手で別の教会を始めました。その当時、多摩川の河川敷に四〇〇人ほどの在日韓国朝鮮人の方々が住んでいました。どうしてその部落が出来たのかというと、敗戦後に米軍が羽田にやって来て羽田四丁目で働いていた朝鮮人の土方の人たちと日本人に、四八時間以内に羽田四丁目から出て行け、と言ったのです。日本人は親戚を頼って出て行きましたが、朝鮮人たちは行くところがありませんでした。彼らはやむなく多摩川をさかのぼり、そこに住んだのです。それが起源です。たまたまそこから戸手教会の伝道所の保育園に入園希望者が来たのです。イ・ユチェという婦人で、その子どもを本名(民族名)で受け入れました。以来その一家とはとても親しくなり、数年が経過しました。ある時、その子供の父親のキム・マンスが自分が今住んでいる家を売りたいと言って来ました。彼らは河川敷の家を出て、きちんとした権利のある土地に住みたいと考えていたのです。私はその家を買いました。しかし、戸手教会の皆さんは反対でした。私はその家で礼拝をしようと思っていたのですが、教会の人たちは「不法建築、不法侵入の場所で日本基督教団が伝道できるか」ということだったのです。私はその時「キリスト教会は日本の国の法律を大事にしなければならない。その通りです。しかし、キリスト教会は国家の法律よりも先に神の国の法律に従うべきではないかと考える。神の国の法律は『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』だ。隣人とはあの河川敷の在日朝鮮人ではないか。あの隣人と共に生きるということがイエス様の御心にかなうのではないだろうか」と言いました。教会の人たちは「そんなことできるわけないだろう」と言って、わーと笑いました。しかしたった一人の神学生が「先生、僕賛成です」と言ってくれたのです。この神学生は今の恵泉女学院の学長であります。結局、教会はその家を買いませんでした。私は自分のお金と青山学院の同僚たちと中国人と結婚していた繆(ミュウ)とよさんという教会の婦人からの援助でその家を買いました。その家の二階の三部屋には神学生を含めて三人の学生に住んでもらい、地元の韓国の子供たちに勉強を教えてくれるように頼みました。

 六月にその家の登記をしましたが、その二ヶ月後の八月に多摩川が氾濫しました。床上七〇cmまでヘドロが入って来て、その四〇〇世帯の部落が全部水浸しになりました。その時学生たちが非常に良い働きをしてくれました。年をとったおじいちゃん、おばあちゃんを背中におぶって土手の上に駆け上がってくれたのです。私も一人のおばあちゃんをおぶって土手の上に駆け上がりました。その時、不思議なことですが、何人とか、国籍とか、名前は何かとか問題になりませんでした。そこで何をしているかで仲良くなって行ったのです。

その後、学生たちと地域の朝鮮人の人たちがすっかり仲良くなりました。私がおぶったおばあちゃんも、八十歳半ばを過ぎたおばあちゃんでしたが、学生たちの家にやって来るようになりました。そして「私もなあ、小さい時には教会に行ってたんですよ。韓国の光州という町の教会に行ってたんですよ。その時、三・一独立運動(一九一九年)があったんだよ」と言うのです。彼女は三・一独立運動の生き証人だったのです。彼女の幼い時代、光州にも独立運動が起こりました。ウリナラマンセー(祖国万歳)、とデモがありました。その時、二頭の馬に乗った日本人の警察官が駆けつけて来ました。そして、抜刀をしてデモの先頭にいた人に切りつけたのです。人々は逃げて行きました。このおばあちゃんはその現場を見ていたのです。「あんな怖かったことなかったよ。教会の若い女の先生は自分の指を切って白い壁に自分の血で、ウリナラマンセー(祖国万歳)と書いていたんだよ」と言うのです。そういうおばあちゃんが、ヨルダン寮と名づけられました学生の家の二軒先に住んでいたのです。そして、そのお孫さんが二人、教会学校に来ていたのです。とても驚くとともに、三・一独立運動がはじめて身近になりました。

4.大学紛争の中で

1)青学大紛争 -学問の自由を求めてー

 戦後七〇年の大きなもう一つの経験は大学紛争でした。青山学院大学でも紛争が始まりました。そのきっかけは第二学部の学生たちが法政大学の柴田いう助教授を講演会に呼ぼうとしたことでした。柴田助教授は私立学校における授業料問題についての論文を書いていた先生です。それに関心を持った第二学部の学生たちが「あの先生を呼んで授業料問題について考えよう」ということにしたのです。柴田という先生は共産党員でマルクス主義者でした。その当時の院長はマルクス主義が大嫌いでした。キリスト教と共産主義は相容れないという考えでした。ですから、学生部長がその講演会のことを院長に報告に行ったところ、院長はそれを駄目だ、と言ったのです。しかし、第二部の学生会の自治会の人たちはその講演会を強行しました。彼らは、その先生が共産党員だろうが、何だろうが、自分たちの生活に関わる問題だからその先生の話を聞きたいと思っていたのです。結局、数名の学生が停学処分となりました。そのことが問題となって青山学院でも学生紛争が始まったのです。

 キリスト教と共産主義は相容れない、という考え方がつまずきでありました。共産圏の中にもキリスト教はあるのです。共産主義とキリスト教はもちろん違いがありますが、世界では両者は対話しているのです。キリスト教の理解の狭さに青山学院の学生紛争の根があったのです。そこから、キリスト教主義とは何であるか、知性を養う大学とは何であるか、という問題になっていきました。院長の発言につまずいた学生たちは「青山学院では公平な学問が出来ないのか。マルクス経済学の講師はいないのか」と質問が深まっていきました。学生たちと院長との団体交渉の時です。ある倫理思想史の先生が何百人もの学生の前に立ちました。その先生は、ソクラテス以来の倫理思想史の講義を続けている先生でした。すると学生が「先生は倫理学を教えている。七〇年安保のこの時、先生は倫理的にどの様な選択をするのですか」と質問しました。しかし、その倫理学の先生は言葉が何も出ないのです。学生たちはさらに「先生は倫理思想史の先生ではないのですか。先生は今何を考え、どう決断をするのですか」と質問しました。しかし、言葉が出ないのです。とうとう学生たちは泣き出し「先生。僕らが喜ぶような返事をしなくていいんですよ。安保賛成でもいいんです。先生の信念を聞かせて下さい」と質問しました。一体大学が教えている知性とは何であるのか、が本当に問われていたのです。

2)責任的知性 -その方向性を問うー

 その当時は川崎で公害問題がひどい時でした。私は「公害問題連絡会議」という市民運動に参加しました。それは私の長男が大気汚染の影響で喘息になってしまったからでした。ある時、公害問題をテーマにしてセミナーを開きました。そして、熊本の水俣病の患者代表の川本さん、という方をお招きしました。川本さんには、熊本での水俣病の問題についてお話をしていただきました。その川本さんがセミナーの最後に言った言葉は「私も、せめて高等学校でも出ていたならば、「チッ素」にあんなことさせませんでしたよ」と言ったのです。私はその言葉が忘れられませんでした。私は大学の教師でした。その時から私は、大学の新学期の冒頭にこの川本さんの話をして、「大学で学ぶ知性は、どういう方向に向かっているのか。人間の痛みや苦しみに共感し、人間の苦しみを解放する知性なのか。それとも、人間を抑圧し、人間の搾取に向かう力に迎合する知性なのか。じっくり考えて、大学にいる間に知性の方向性について考えてもらいたい」と言って来ました。それが七〇年の学生紛争を体験し、忘れられないことです。

3)キリスト教主義とは何か -文化への奉仕―

キリスト教主義とは、キリスト教のドグマを教え込むことではありません。キリスト教の土台となっているのは「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」というイエス様の言葉です。この言葉を倫理に表して行くこと、すなわち隣人愛、平和、人権、自然環境を大事にするといったことにキリスト教主義教育の基本姿勢があると思います。人間は神のかたちに造られた、と旧約聖書の人間創造の物語りにあります。人間はそれほど尊いのです。その神のイメージに造られている人間の尊厳性を具体的に、倫理として表して行くことがキリスト教主義であります。

また、隣人というテーマには平等という思想があります。相互関係の思想であります。我と汝という関係の中で相互扶助という姿勢が出てまいります。つまり、社会福祉です。社会福祉を含めた共同性の場面で働くことが出来る人材を育てるのがキリスト教主義の大学であるのです。

5.今日のキリスト者の課題と希望

1)テロリズムの源泉 -貧困と差別―

二〇〇一年九月十一日以来私がずっと思っていることは、テロリズムが生まれてくるのは貧困と差別があるからだ、ということです。貧困と差別がある限りテロは生まれてきます。

2)西欧キリスト教文明の責任 -植民地主義の罪責―

 現在IS(Islamic State)と言われているドグマ集団の問題の根っこは何でしょうか。それは、十九世紀のヨーロッパキリスト教文明にあります。ヨーロッパキリスト教文明はアフリカを侵略しました。中近東を支配しました。そして、そのアフリカと中近東に対するキリスト教文明の支配は非人間的なものでありました。そのことについての反省なくして、ISを批判できません。ISの問題のルーツはそこにあります。ISの動きはかつてはあまりに弱く小さく、武器も無かったので反抗できませんでした。しかし、今は少し豊かになり武器を持てるようになりました。武器によってお金を儲けている国があり、そこから武器を買うこともできるようになりました。だから、今こそかつての怒りをぶつけよう、ということで立ち上がったのがISなのです。問題は、怒りと恨みによってアクションを起すということは、必ず反動が生まれることです。イスラム圏の中でもISに対する武力攻撃が始まっています。報復は報復、敵意には敵意という悪循環が始まっているのです。これでは駄目なのです。

3)M.L.キングの遺産 -被抑圧者からの変革の希望―

ISなり、テロを乗り越えて行く大事な原則は、キング牧師の遺産です。キング牧師の『汝の敵を愛せよ』という説教集が出ています。その中で彼が言っていることは「黒人たちよ。我々の運動は白人たちに勝つことではない。そうではなく、白人たちの中にある誤った敵意を無くすことだ。敵意をなくすために敵意を持ってしたのでは、報復の悪循環に陥るばかりだ。敵意をなくすためには、愛するしかない。愛によって、相手の敵意をなくすまで、黒人たちよ、白人たちを愛そうではないか。黒人の運命は白人の運命と結びついている。白人が救われなければ黒人も救われない。だから、我々の運動の目的は、白人に勝つことではなく、白人と共に生きることだ。だから、白人の誤った敵意をなくすために、黒人たちよ、白人の兄弟たちを愛そうではないか」と言っているのです。イエス様は「汝の敵を愛せよ」と言っていますが、この言葉は個人間の原理ではなく、民族間の問題を解決する時に最も強力で具体的な、効果のある戒めなのです。報復の悪循環を断ち切るためには愛しかありません。だから、キング牧師は「白人を愛そう」と言っているのです。

私は最近『コーランを読む』という本を読んでいます。コーランの冒頭の言葉には「慈悲深く、慈愛あまねきアッラーの神の御名において」とあります。こういう信仰を持っているイスラムの人たちと和解出来ないわけがありません。私はイスラム圏の人たちとの和解の日が必ずやって来ると思います。そのために努力しなければなりません。それが今日の私の話の結論です。

むすび -敵意と隔ての壁を取り壊すためにー

最後にエフェソの手紙をお読みいたします。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(エフェソ2:14-18)敵意という言葉が二回出て来ますが、十字架によってキリストが自らを犠牲にすることによって報復の悪循環を断ち切りました。愛によって解決する道を切り開かれたのです。この道こそ希望だと思います。これ以外に希望はありません。力を持って叩いても、ミサイルを撃ち込んでも、それでテロは収まりません。貧困と差別をなくすための努力が必要です。それが続けられることによって対話の道が開かれると思います。

最後にアッシジのフランチェスコの祈りを皆で祈り終わりたいと思います。「平和の祈り」を祈りましょう。


「主よ、私をあなたの平和の道具としてお使いください/憎しみのあるところには 愛を/いさかいのあるところには 赦しを/分裂のあるところには 一致を/疑いのあるところに 信頼を/誤りのあるところに 真理を/絶望のあるところに 希望を/闇に 光を/悲しみのあるところに 喜びを、/もたらす者として下さい/慰められるよりは 慰めることを/理解されるよりは 理解することを愛されるよりは 愛することを/私が求めますように/私たちは与えるから受け/赦すから赦され自分自身を捨てて死に/永遠の命
に生きるからのですから/アーメン」



(注)第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白
 わたくしどもは、一九六六年十月、第一四回教団総会において、教団創立二五周年を記念いたしました。今やわたくしどもの真剣な課題は「明日の教団」であります。わたくしどもは、これを主題として、教団が日本及び世界の将来に対して負っている光栄ある責任について考え、また祈りました。
 まさにこのときにおいてこそ、わたくしどもは、教団成立とそれに続く戦時下に、教団の名において犯したあやまちを、今一度改めて自覚し、主のあわれみと隣人のゆるしを請い求めるものであります。

 わが国の政府は、そのころ戦争遂行の必要から、諸宗教団体に統合と戦争への協力を、国策として要請いたしました。

 明治初年の宣教開始以来、わが国のキリスト者の多くは、かねがね諸教派を解消して日本における一つの福音的教会を樹立したく願ってはおりましたが、当時の教会の指導者たちは、この政府の要請を契機に教会合同にふみきり、ここに教団が成立いたしました。

 わたくしどもはこの教団の成立と存続において、わたくしどもの弱さと過ちにもかかわらず働かれる、歴史の主なる神の摂理を覚え、深い感謝とともにおそれと責任を痛感するものであります。

 「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調するべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。

 しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外に向かって声明いたしました。

 まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。

 終戦から二〇年余を経過し、わたくしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中にあって、ふたたび憂慮すべき方向に向かっていることを恐れます。この時点においてわたくしどもは、教団がふたたびそのあやまちをくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであります。

一九六七年三月二六日 復活主日

日本基督教団

総会議長 鈴木正久