「神の戒め」としての平和と和解

 岡田 仁

「仲間を赦さない家来」のたとえ

新約聖書のマタイによる福音書18章21節以下に有名な譬え話があります。

あるところに一人の王様がいた。王は、自分の家来たちに貸したお金を決済しようとした。そこに、1万タラントン(約6千億円)の借金を作った家来が王の前に連れ出されたが、返済したくても方法がない。持っているもの全て、家や畑、妻や子ども、自分も売って借金の返済に充てるよう命じられた。ところが、その家来は王の足元にひれ伏して言い続ける。「どうぞ、お怒りにならないで下さい。全部お返ししますから」。王は、憐れに思って、彼を赦し、彼の借金を帳消しにしてやった。さて、その家来が出てくるなり、一人の同僚と出会い、その人を捕まえたあげく、その首を締め上げ、借金を返せと迫った。その同僚も同じように「どうぞ待って下さい。お返ししますから」と頼んだが、この1万タラントンを帳消しにされた家来は、100デナリオン(約100万円)を返せない同僚を牢獄に入れた。これを聞いた王は大変怒って、1万タラントンの借金の帳消しを取り消した、という話です。

「王の家来」とは、おそらく地方の総督で、行政区域の税収入に責任があった人、大変な額を自分の思い一つで自由に左右できた人であったと想像されます。この話はあながちフィクションではないのかも知れません。この譬えの最後はこう締めくくられています。

「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなた方に同じようになさるであろう」。

この物語の王様は、神をさしています。1万タラントンとは私が神から赦された額であり、100デナリオンとは私が隣り人を責め立てている負債の小ささを表します。私自身の負債は莫大な額に値する。いかに神の憐れみが限りないものであるか・・。それに対して、私はいかに他人を赦すことの出来ない者であるのかを思わされます。

 この物語のイエスとペトロの会話にも注目したいのです(18:21)。興奮しやすいペトロは、恐らく弟子の仲間たちとのいさかいに腹を立てて、イエスに尋ねます。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか」。

当時のユダヤ教では、同じ人に対する赦しは三度までで十分だと考えられていました。ですから、ペトロにとって「7回」赦すというのは、想像を絶することであり、到底あり得ないことでした。ところが、イエスは言います。「7回どころか、7の七十倍までも赦しなさい」。7の七十倍。これは「無限」を表します。きっとペトロは、このイエスの言葉に大変な驚きを覚えたと同時に、こんなことはとても自分には出来ない、と呟き嘆いたことでしょう。

加速する復讐の連鎖

2001年9月11日、アメリカのニューヨークで同時多発攻撃事件が起こりました。そのほぼ同時刻にたまたま私は家族と共にヒューストン経由で中米ニカラグア共和国へ向かう機内にいました。首都のマナグアをはじめいくつかの町を訪ねましたが、ニカラグアが経済的に大変貧しい国であるということを改めて知りました。空港からホテルに向かう途中、物乞いをする子どもや水を売り歩く貧しい人々を何度も見ました。市場や町を歩いているときも、お菓子を売り歩く子ども達や靴磨きをする子ども達が近づいてきます。5、6歳くらいの年端もいかぬ子どもたちが働いている姿に衝撃を受けました。同行の一人が、戦後間もない日本の姿を見るようだ、と語っていたのが印象的でした。

ニカラグアは、80年代の激しい内戦が原因で経済活動が行き詰まり、社会が極度に混乱、疲弊していったといわれます。その当時、年間5百億円近い赤字を抱え、6千億から7千億の負債を抱えていると聞きました。貧富の格差が激しく、一握りの富裕層と大多数の貧困層がはっきり分かれていて、国全体が海外からの経済援助に依存している状態でした。そうした中にあって、日本が行ってきた経済援助、ODAの問題も同時に考えさせられました。建造物や橋などのハード面での援助はなされても、ソフト面での協力は殆ど為されていない。しかも、援助という名目で多額のお金を出し、それがその国に渡されるのではなく、日本の建築業者を使って建物を造っていく。その援助は必ずしもその国の必要を満たすためのものではなく、世界の目を意識した「援助」であるという話も聞きました。 

西暦2000年は世界中で「ヨベルの年」が叫ばれました。対外債務国、貧しい国々の抱える莫大な負債を免除する「ジュビリー2000」と呼ばれる運動が、ヨーロッパの特にキリスト教国と言われる国々の間で奨励されました。これは、聖書の教えに基づくもので、旧約聖書のレビ記に由来します。週の第7日に安息日、その7を7倍した49年の翌年、50年目は「全ての住民に解放の宣言をする。それがヨベルの年である」とそこには記されています。50年に一度、全ての貸し借りを帳消しにする制度が旧約時代にありました。一見、不公平にも思えるこの制度ですが、この制度が聖書にはっきりと記されていることに大きな意味があります。生きている限りにおいて、人間と人間、国と国同士、貸し借りがどうしても残ります。取り立てたり、返済したりすることもある。しかしそのことで、敵意や憎しみが残り続けるのだとしたら、それは決して神の喜ばれるところではないのです。むしろ、神に赦されることによって、互いに許し合い、一つとなることこそが神の望まれることです。「貧しいのはその人自身の問題で、その国の問題だ」という見方ではなく、なぜそうなったのか、問題の本質をしっかりと見極めることが大切ではないかと思います。力の強いもの、弱いものはどうしても出てきます。その力をどのように、何のために用いるのかが大切でしょう。アジアやアフリカ、そして中南米で今も貧困に苦しむ人々に本当の意味でのヨベルの年、解放の年が来ることをわたしたちは祈り続けたいと思うのです。ニカラグアは「発展途上国」ですが、人々は困難の中にあって優しさとたくましさを持っていました。そしてあたたかかった。国全体がゆったりしたペースで、そこには開かれた明るさ、別の意味での豊かさが感じられました。

帰りに経由地の米国テキサス州のヒューストンに丸一日滞在しましたが、ニカラグアとは全く対照的な姿、産業都市の発展、通信設備の充実、芸術文化活動、工業化などを目の当たりにしました。ヒューストンはアメリカでも屈指の「文明都市」ですが、そこには、大都市特有の閉じられた状態、排他的感情や自己肥大化の問題が横たわっているかのようにも思えました。

超高層ビルに大型ジェット機が衝突する。これは現代文明の悪夢だと言えます。しかしこれがまさに現実となりました。ビルもジェット機も科学技術と進歩の産物です。人間にとって役に立つ便利なものが、人生の本質においてどう関わるのか。同時多発攻撃事件の直後だったせいか、町中至る所に星条旗がはためいていて、米国民の怒りと悲しみが愛国心に燃えて戦争に向かっている様子がひしひしと伝わってきました。その時、旧約聖書の創世記4章「レメクの歌」を思い出したのです。「カインのための復讐が7倍なら、レメクのためには七十七倍」。確かに、6千人以上もの何の罪もない人々の命を一瞬のうちに奪い去ったあの行為は赦され得ないものです。二度とあのような悲劇が起こらぬ事を誰もが願っています。しかし、それに対する軍事的報復を行った場合、何が起きたのか。また更に罪のない無辜の人々まで危険にさらすことになったのではないか。その後のアフガン戦争、イラク戦争という軍事報復による悲惨な結末をわたしたちは知っています。復讐の連鎖は今日さらに加速しているかのようです。

神の戒めとしての「平和」

世界は平和を切望しています。

神の子イエス・キリストは徹底して暴力を退けられました。そして、寛容と対話、神の赦しと和解を繰り返し説き勧めました。にもかかわらず、権力者と熱狂的なユダヤ教信者(狂信者)の双方に憎まれ、十字架の死に追いやられたのでした。それでもイエスは自ら憎しみに染まることなく、敵味方の区別無く、赦しと愛の生き方を十字架の死に至るまで貫かれました。わたしたちはみな、このイエスの十字架の赦しと愛によって生かされており、かけがえのない命を与えられているのです。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである・・・すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、み心に適う人にあれ』」(ルカによる福音書2章)。

この聖書の言葉はクリスマスによく読まれる箇所ですが、この御言葉に対し、ドイツの牧師で神学者のデイートリッヒ・ボンヘッファー(1906-1945)は次のように述べています。

「地に平和。これは、議論すべき問題ではなく、キリストの到来によってすでにわたしたちに与えられている戒めなのである」。地の上の平和、人と人との間の平和。これは、破られてはならない神の戒めである、とボンヘッファーは言うのです。また、平和は人間の間に存在すべきであり、平和であるべしというキリストの戒めからの逃避は存在しないのだと。「地の上に平和」。これはわたしたち人間が議論するレベルの問題ではなくて、キリストの到来によってすでに神がわたしたち人間に与えられた戒めであり、破られてはならない戒めです。

 さらに、「平和は敢えてなさねばならないことであり、それは一つの偉大な冒険である。それは決して安全保障の道ではなく、その反対にある」と語ったボンヘッファーは、不信感の上に成り立つ安全保障の道を破棄し、神の平和と愛の戒めに従って相手に対する祈りの道を歩み、非暴力的な手段によって平和を求めるべきことを訴えました。まさに「平和の冒険」といえましょう。「これは正しい戦争だ」「あれは間違った戦争だった」という言葉をよく耳にします。しかし、そうではない。戦争そのものが間違いなのです。「国の安全を守るための戦争」「世界戦略のための安全保障」という言葉に、わたしたちは注意しなければなりません。どんなことがあっても二度と戦争を引き起こしてはならないのです。「安全保障」の名のもとに「敵」を新たに見つけるのではなく、どこまでも神の戒めに基づいた愛のある対話的外交こそが大切です。

いまだに世界各地に戦争や紛争が繰り広げられています。爆撃による犠牲者は後を絶たないどころか、大量無差別殺戮が延々と続いています。そして神の造られたこの美しい大地までもが人間の手によって破壊されている。

わたしたち人間は、神様のみ心に適わない存在です。自分自身を省みていかに神様から遠い者であるかを思わされます。けれどもそのようなわたしたちのところにキリストがきてくださった。神様のほうからわたしたちのところへと歩み寄ってくださったのです。そして今も尚、「み心に適う人に平和があるように」と祈られている。どこまでも神のみを神とし、地上の平和を実現することがクリスマスの使信です。

 「私がお前を憐れんだように、お前も自分の仲間を憐れむべきではなかったのか」。神の赦しがわたしたち人間に、そして人間同志がこの赦しの絆によってかたく結ばれていく。赦しの連鎖がわたしたちを滅亡から救い出し、わたしたち全てを生かすのです。神と人間との間、そして人と人との間、本来あったはずの調和のとれた愛と真実の関係、ここに、わたしたちの存在の基盤があります。神は、神と人、人と人との関係が決定的に重大であることをわたしたちに語っておられます。

今も、いじめや差別によって人を傷つけたり、殺したりする問題が後を絶ちません。わたしたちは、「報復の連鎖」ではなく、神の求めておられるところの「赦しの連鎖」を生きたいと希望します。いついかなる時にも、イエス・キリストがそうであられたように、赦す心、忍耐する心、仕える心を持ち、イエスご自身が与えて下さる十字架の赦しの恵みと愛を素直に受け入れるものでありたいのです。そして、神様がわたしたちを命がけで愛して下さっていることを信じ、一つ一つの出会いを大切にしつつ、正義と平和の世界を共に実現するわたしたちでありたいと願います。