第一回英連邦戦没捕虜追悼礼拝 追悼の辞 平和の礎「明確な謝罪と補償を」


関田 寛雄

第二次世界大戦終了後五十年を迎えますこの年、この日、この連合軍、特に英連邦戦没者の墓前におきまして平和の礎を求めながら、ともに追悼の集いを持つことができますことを心から神に感謝致します。

 この時にあたり、平和の礎を支える三つのことについて、今日はお互いに思いを深めたいと思います。

 第一は過去に関することであります。第二次大戦後、日本は敗戦処理内閣として、はアメリカの国民に向かい、ラジオ放送を行いました。その内容は「アメリカの国民たちよ。パール・ハーバーを忘れてほしい。我々もまた、広島・長崎を忘れるから」というものでした。

 かくして、この過去の忘却の上に太平洋の平和の架け橋をつくろうではないか、というメッセージを彼は送ったのです。

 それに対して、私事になりますが、私の兄は復員してすぐに入社したある新聞社の駆け出し記者として、小さなコラムを書きました。その中で彼は、「この声明は間違っているのではないか。我々はむしろアメリカの国民に向かって『パール・ハーバーを覚えていてほしい。我々もまた、広島・長崎を決して忘れないから。そして、両者のこの悲しみと悲惨の記憶を持ってこそ、太平洋に平和の架け橋をつくることが出来るのではないか』と、このように言うべきではないか」と主張したのです。

 それは、まだ十七歳で敗戦を迎えました私にとりましては、非常に味わい深い心に刻むべき言葉となったのです。

 私どもはここに、英連邦諸国、インド・パキスタンの戦没者の前で、両者の平和はあの泰緬鉄道の事件の忘却ではなく、またクワイ河のあの悲劇の忘却ではなく、むしろそのことを深く記憶することにおいて、初めて両者の「平和の礎」が確立されるということを申し上げたいと思います。

 第二に、現在にかかわる事柄として覚えたいことがあります。

 先日テレビの報道で、ある七十歳を越えたオーストラリアの元兵士の方が、当時の捕虜収容所のことを取材の記者に語っておられました。彼はその中で、「捕虜収容所においては、毎朝東の方に向かって頭を下げる習慣があった。それは言うまでもなく日本の東京にある天皇の住居、その天皇に向かって崇拝の念を捧げるという意味であった」と証言していました。

 しかし、このオーストラリア兵士は、東に向かって頭を下げることを拒否したのであります。彼は、その結果、歯をすべて折られるほどの暴行を受け、血みどろになって数日間気を失ったというのです。そのことを語りながら、彼は涙を流しておりました。

 このような方々が、今なお生きているのです。日本の戦争責任、なかんずくその総司令官であった天皇の責任を覚えて涙しているのです。

 このことに関して、現在我々は何をなすべきなのでしょうか。国会の不戦決議をめぐる議論を聞いていましても、何とも腑甲斐ない不徹底な責任の認識であります。

 言い訳をすればするほど、日本の戦争責任は深まるのです。言い訳ではなく、明確な謝罪を日本国はしなければなりません。そして、その明確な謝罪をして初めて、日本は道徳的な力を回復できるのです。

 技術と知識、その成果。経済的な繁栄とその力。それがこの人類史上において、一体道徳的にどのような意味を持つというのでしょうか。

 ここにはっきりと戦争責任の罪を言い表すことにおいて、初めて日本は諸外国に対し、その道徳的責任主体として立ち上がることが出来るのだと思います。

 現在なすべきことは、言い訳ではなく、明確な謝罪とそれに伴う戦後補償なのだということを、ここに確認しておきたいと思います。

 第三に未来に関わることについて申し上げます。

 現在は東西冷戦の緊張が解けまして、新たな歴史の次元に入ってきております。諸民族の和解とグローバルな平和を築く未来に向かって私たちは手を携えて歩まなければなりません。

 罪赦され、新しい思いをもって、次代の人類に対する責任を、共に果たすべく働かなければなりません。

この時にあたり、今日、聖書に学びましたように、狼は子羊と共に宿り、豹は子山羊と共に住むという諸民族共和の世界を作り出すため、また同時に、地球上の全ての生物との共生を図るために、私たちは力を尽くして環境の保全、生きることの支え合いをしなければなりません。

 私どもは、八月六日を明日に控えております。広島において炸裂した原子爆弾のあの力は、今や、南太平洋ムルロア環礁においてまたもや爆発しょうとしております。

 さしあたってこのことに対して、力を尽くして反対すること。グローバルな共存の世界を求めて共に生きることを決意すること。このことこそが、今日ここで英連邦戦没者の霊を悼みつつ、平和を乞い願いつつ、決意することであろうと思います。



この文章は『戦没捕虜追悼礼拝(1995‐2002)―平和と和解への道―』(2002年8月発行)から転載いたしました。